姫塚
愛知県蒲郡市大塚町広畑の素盞嗚神社の北側にある畑の一角に、小さな石の祠と供養塔が建てられており、ここは「姫塚(ひめづか)」として伝えられています。この塚には、主に三つの伝説が残されています。
姫塚に伝わる三つの伝説
丹野城主の娘の自害説(最有力)
文明2年(1470年)、丹野城主の萩原左衛門尉芳信(はぎわらさえもんのじょうよしとぶ)が敵の襲来を受け、御堂山山頂の丹野城から討って出て、備後林で自刃しました。この戦いの際、同じく城を出た芳信の娘(姫)がこの場所で亡くなった、という説です。
徳川家康軍の武将の妻説
徳川家康軍の武将として戦い、討死した中島城主の妻を葬ったという説。
不甲斐ない夫に殉死した妻説
別の中島城主が戦いを避けて帰城した際、その夫の不甲斐なさを諌めた妻が、夫に切腹を促し、自らも殉死した亡骸を葬ったという説。
供養塔の碑文
姫塚にある供養塔の碑文には、文明2年の出来事が刻まれています。それによると、牛窪(うしくぼ)の牧野成時入道古伯に攻められ落城した際、「芳信公の息女姫、此処まで落ち延び自害して果つ」とあり、姫がこの場所で自害して亡くなったことが記されています。
父娘の絆を感じる地
この姫塚から東には、父芳信の埋葬地・西の宮、自刃した備後塚があります。さらにその先には、芳信を祭神とする萩原神社があります。
姫塚は、父親の場所を向いて建てられています。戦乱で命を落とした父と娘が、距離は離れていますが、並んで弔われている場所として、悲しくも家族の絆を感じさせる、相楽・大塚の歴史を物語る場所です。
続海浜独唱 4 (361~396) (三河アララギ叢書 ; 第74篇) – 国立国会図書館
長興寺 – 丹野城主荻原芳信の開基 – 蒲郡の旅
宝国山全福寺の歴史(『宝国山記』口語訳) – 蒲郡の旅
姫塚の画像



「姫塚」は、御津磯夫氏の揮毫です。歌誌「三河アララギ」を主宰した御津磯夫は、本名今泉忠男で、今泉病院の院長でした。また、萩原芳信の子孫だと言われています。

