宝国山全福寺の歴史(『宝国山記』口語訳)

『宝国山記/寶國山記』は、慶長2年(1597年)に鶴翁芳宿大和尚によって記された古文書です。

この文書は、三河七御堂の一つであった全福寺やその周辺の歴史を知る上で、非常に重要な史料となっています。

しかし、原本は入手が難しく、古文であるため解読も困難でした。これまで『蒲郡市誌』などで断片的な情報しか得られていませんでしたが、今回、『大塚・相楽ふるさと博物館』でその現代語訳が公開されていることが分かりました。

さらにこの難しい現代語訳を、口語体(話し言葉)に分かりやすくまとめて、紹介します。

全福寺跡 - 礎石が語る歴史全福寺跡は、蒲郡市相楽町の御堂山山中にある史跡で、蒲郡市指定史跡に登録されています。全福寺の創建は古く、神亀年中(724年〜728年)に高僧・行基が十一面観音を刻み、これを祀った…
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全福寺跡 - 礎石が語る歴史

寺院の起源:行基菩薩による十一面観音創建(神亀年中)

昔、三河国宝飯郡丹野村にあった宝国山全福寺は、天台宗の寺院で、元は12の僧院を擁していました。その名は養円、多福、真諦、普門、勢徳、観心、般若、慈雲、護持、松本、千手、中之院ですが、慶長2年(1597年)の時点では、養円と勢徳の二つしか残っていませんでした。

古い記録や伝承によると、神亀年間(724年〜728年)、高僧の行基菩薩が東国を巡っていた際、御津(みと)に泊まると、夜中に御堂山の方向に白い霧のようなものが渦巻くのを見ました。

行基はそこに霊的なものを感じ、夜明けとともに道なき道を登り山に入りました。すると、異形の人が現れ、こう告げました。

「この山の裏は山々が重なり、表は青い海が広がる珍しい土地で、神の宿る場所です。あなたはここにお堂を建て、わたしの姿を祀りなさい。」

その直後、異形の人は十一面観音の姿となって空へ消え去りました。行基はこれを観音様が人々を救うために現れたのだと悟り、昨夜の白い霧は、これまでの修行で観音様が示した啓示だと確信しました。

彼は山肌を登り、観音様の聖地と思えるような変わった形の岩や老木がそびえ立つ場所を見つけました。そして、一本の大杉から十一面観音像を彫り、言われた通りにお堂を建てて祀りました。さらに、同じ大杉から釈迦像と聖観音像も刻んでお祀りしました。これ以降、御堂山にお参りする多くの人々が幸せになったと伝えられます。

源頼朝との関わり(永暦元年〜建久元年)

永暦元年(1160年)、源頼朝が伊豆へ流される途中、豊川の渡しを過ぎる際に、通行人の老人が御堂山の観音様のご利益を説くのを聞きました。頼朝は伊豆での配流中、常に観音経を唱え、源氏の再興と国の安定を祈り続けました。その観音様の霊験あってか、ついに平氏を討ち破り、源氏の天下となりました。

建久元年(1190年)10月、頼朝は上洛して宮中へ参内した帰途、赤坂を通り宮地で宿をとりました。このとき、使者を観音堂に遣わしてお礼参りを行い、大塚、山神、丹野の三つの村を寺領(寺の領地)として寄進しました。

三河七御堂の創建(建久年間)

その後、頼朝の家臣である安達九郎盛長が三河国の守護になると、五井(ごい)の里に屋敷を構えました。

盛長は、源頼朝の命令と自身の固い誓願に基づき、三河国の七か所に寺院(堂宇)を創建しました。これら七つの寺院は、同じ日に工事を始め、同じ日に完成したとされています。これを三河七御堂(みかわしちみどう)と呼びます。

宝国山全福寺は、この時、天台宗の寺院として多くの僧が集まり、十二の僧院が建てられ、また隣に熊野権現の社を鎮守社として祀られました。

田畔(でんけい)、三月田、五月田、九月田や、祭供田(さいくでん)、朝拝田といった地名や字名(あざな)は、昔の十二僧院の月の祭りや、その備蓄のための土地に由来しています。

戦火による荒廃:萩原芳信の謀反と自刃(文明年中)

文明年間(1469年~1487年)、備後(びんご)から来た萩原芳信(はぎわら よしのぶ)は、荒々しい性質で、神社や寺院を破壊しました。全福寺も財産や資材を奪われ、それらは軍備に充てられました。

芳信は、御堂山の山頂に城を築き、すべての仏具を溶かして兵器とし、僧侶に甲冑を着けさせて強制的に武装させるなどしました。

しかしある日、敵兵が山の麓に現れて城を囲んだという知らせを聞き、城を出て敵を追い払おうとしましたが、城から約4キロメートル離れた場所で、日頃の暴政を憎んでいた従者たちの謀反に遭ってしまいました。芳信はついに力尽き、その場で自刃しました。その場所は備後林(びんごばやし)と呼ばれています。

この戦火により全福寺は焼失し、そのまま荒れ果てた状態になりました。

全福寺の再建と記録(文禄4年〜慶長2年)

文禄4年(1595年)、私(芳宿大和尚)は、龍源寺の住職を引退した後、養円寺に住むことになりました。

それから8年後(慶長2年頃)、新しいお堂も完成し、禅寺(養円寺)としての形も整いました。

これもまた、時代の運命(時運)が巡ってきた結果です。ここに、この地のこれまでの出来事を記録し、後世に伝えます。

慶長2年丁丙三月穀旦
龍源七世当山開闢比丘鶴翁芳宿
多福庵中に於いて筆を採る。


『大塚・相楽ふるさと博物館』
蒲郡史談 – 国立国会図書館

全福寺跡解説板
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