元徳寺 – 水竹城

元徳寺の由来:戦乱の世を生き抜いた金田氏の物語

元徳寺は、蒲郡市水竹町松前にある浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を松林山といいます。この寺の創建には、波乱に満ちた金田氏の歴史が深く関わっています。

元徳寺の開基である金田氏1は、千葉小太郎頼次を祖とします。頼次は源頼朝に仕えましたが、衣笠山で敗れて自刃。その後も子孫は戦乱に巻き込まれ、頼房、頼継、そして4代目の頼治2と、代々戦で命を落とします。特に頼治は、永仁2年(1294年)に水竹で城主となりますが、近江国で討死し、遺骸はここ水竹の地に葬られました。

浄土真宗への帰依と寺の創建

5代目の信政は、戦の無常さを感じて真言宗から浄土真宗に改宗。しかし、文明5年(1473年)、松平親忠に従い田原合戦で討死した際、「松林院釈元徳居士」という法名を授かりました。これが元徳寺の名の由来とされています。

信政には義澄3と正祐という二人の子がおり、特に義澄は松平広忠の厚い信頼を得ていました。しかし、弟の正祐は上野広久手の戦いで、兄の義澄も翌年の渡里合戦でそれぞれ討死します。さらに、その子である元政もまた、永禄3年(1560年)の上ノ郷城攻めで命を落としました。

武士から百姓へ、そして寺院の建立

元政の子、康政は家康に仕え、家康から「康」の一字を与えられます。しかし、岡崎城の普請奉行を務めた際に過労で病死。弟の勘助も大坂の陣で討死し、金田氏は武士としての道を失いかけていました。

康政の子である助蔵は、父の死を機に武士の道を捨て、百姓となります。その子である茂助もまた百姓として生計を立てる中、祖先の由緒を重んじて「松林院」を建立。五井常円寺の次男である祐玄を住職として迎え、これが松林山元徳寺の始まりとなりました。

現在の元徳寺と水竹城周辺

元徳寺の裏に、「水竹城主 金田小太夫近江佐信政」の五輪塔が祀られています。その傍の墓誌が建てられていて、銘文には金田信政が田原合戦で討死したことが記されています。

また、このあたりに水竹城があったと言われますが、その形跡はありません。

  • 寺号 松林山 元徳寺
  • 本尊 阿弥陀如来
  • 宗派 浄土真宗本願寺派
  • 創建 慶安年中(1648年-1652年)金田茂助(文明5年を開山とする資料もあります)

元徳寺の画像

地図・行き方

参考文献

  1. 金田郷(豊橋市嵩山あたりに住んだと言われます
  2. 右近衛佐入道一休斎
  3. 名を忠兵衛と言い、母は田原の戸田宗光の娘と言われます

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