鵜殿長存の墓・加藤謙斎の墓 – 長存寺
長存寺に眠る鵜殿氏と加藤氏の物語
長存寺には、歴史の波を乗り越えた鵜殿氏と加藤氏の墓所があります。鵜殿氏の墓には、松平方につき、家を存続させた鵜殿長存の墓と鵜殿長忠の墓があります。一方、加藤氏の墓には、徳川家康の側室の養父となった加藤彦十郎と、その子孫で医師・俳人として知られた加藤謙斎烏巣が眠っています。彼らの墓を巡ることで、戦国時代から江戸時代にかけての西郡の歴史をたどることができます。
鵜殿氏の興亡:桶狭間から上ノ郷合戦へ
鵜殿氏は、永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦まで、上ノ郷・下ノ郷・柏原・不相の4つの城を領する有力な豪族でした。しかし、今川家の衰退と松平家の台頭により、一族は敵味方に分かれて戦うことになります。
永禄5年(1565年)の上ノ郷合戦では、今川方の上ノ郷城主鵜殿長照は討死しました。一方、松平方についた下ノ郷城主鵜殿長存と柏原城主鵜殿長忠は生き残り、家を存続させました。長存寺は、この2人の始祖の墓所となっています。長忠の墓はもともと柏原にありましたが、安政年中に子孫によって長存寺に移されました。
鵜殿氏と加藤氏の深い繋がり
鵜殿長忠にはもう一つの顔がありました。彼は、徳川家康の側室である西郡局(にしのごおりのつぼね)の養父です。西郡局の実父は、もともと三好家の出身である加藤彦十郎と伝えられています。
加藤彦十郎は、単に武士としてだけでなく、地域の発展にも貢献した人物です。彼は上ノ郷から下ノ郷に市場を移し、「六斎市」、通称「五・十(ごとう)の市」を開きました。長存寺の檀家頭として、寺に多くの寄進をしたことでも知られています。彼の墓は、墓所にある大きな板碑「南無妙法蓮華経」に刻まれた「長春院」から、その墓だと考えられます。
医師にして俳人:加藤謙斎烏巣
彦十郎の子孫には、加藤謙斎がいます。彼は寛文10年(1670年)に西の郡で生まれ、医術を学び『医療手引草』などの著書を残しました。また、俳人としても活躍し、「謙斎烏巣」の号を名乗りました。
謙斎の墓は、蒲郡市の指定文化財にもなっており、墓所の前に立つ石碑「蒲郡市指定文化財 加藤謙斎烏巣之墓」が目印です。
長存寺の墓地は、鵜殿氏と加藤氏の歴史が交錯する場所です。彼らの墓を巡ることで、蒲郡の知られざる歴史と人々のつながりを感じることができます。

鵜殿氏と加藤氏の墓
参考





