入戸野貞伯 – 伊能忠敬が宿った西浦の医師
西浦村の医師であった入戸野貞伯(にっとの・ていはく)。彼の名を知るきっかけは、伊能忠敬の測量の足跡を辿る旅にありました。
伊能忠敬が蒲郡を測量したのは、享和3年(1803年)3月のこと。日記には、14日に三谷、翌15日に西浦へ宿泊したことが記されています。その際の宿所となったのが入戸野邸でした。測量日記には「止宿 医師入戸野貞伯」とはっきりと記録が残っています。
二人の「貞伯」と歴史を物語る碑
現在、邸宅跡には「貞伯翁墓碣表(ぼけつひょう)」と「伊能忠敬蒲郡宿泊地跡」の碑が並んで建っています。
墓碑には、貞伯が明治19年(1886年)に亡くなったと記されています。忠敬の宿泊(1803年)とは年代が離れていますが、実は入戸野家は二代続けて「貞伯」を名乗っていました。忠敬が泊まったのは初代の邸宅であり、碑が建つ二代目の父にあたります。
武田氏の血を引く入戸野家のルーツ
また、入戸野家は武田勝頼を祖先とする由緒ある家系です。勝頼の庶子が、入戸野和泉守の娘と結ばれたことに始まり、初代昇蔵から数えて6代目が、忠敬を迎えた初代貞伯でした。
この歴史的な縁については、『伊能忠敬と蒲郡測量その周辺』に詳細に記されています。
市川光雄(1983)『伊能忠敬の蒲郡測量とその周辺』 – 国立国会図書館デジタルコレクション
「貞伯翁墓碣表(ぼけつひょう)」
貞伯入戸野翁、その先は武田氏より出ず。曩昔、天目の戦に勝頼敗死す。庶子某あり、なお幼し。その臣入戸野和泉守潛かに己が家に匿ひ、心を尽くして鞠育す。長じて、その女に通じ、一男某を生む。某大志あり。つねに先業を恢復せんとせんと念ず。しかれども性多病、某事の成すあたはざるを知って、遂に自殺す。その遺孤、母氏の姓を冒し、入戸野氏といひ、自らを昇蔵と稱す。幼にして岐嶷、騎射を習ひ、指もて群兒を使う。父老見て、これを奇とす。長づるに及んで、倜儻、雄略あり。徳川照祖その武を聞き、かつ信玄の曽孫と似ひ、召してこれを禄す。昇蔵、その功無く、徒らにこれを受くるを愧じ、固く辞して去る。遍く諸国を歴遊し、終に尾張に至る。尾候これを聘し、禄五百石を与ふ。すなはち、翁七世の祖なり。故あり、致仕して三河国に赴き、国府村に就きて隠居す。子伊伯、後に、その国上之郷に移り、又西浦村に転じて、医を業とす。これより子孫ここに居て、皆その業を継ぐ。
翁は童季英邁にして才幹あり。弱冠にして父を失ひ慨然思ひを実学に覃ぼし、日夜勉励し、博く古今方技の書を読みて、学術大いに進む。四方その名を聞き、治を乞う者、日門に填噎す。翁は、一ヒを以て皆その患を除き、杏林宅を敷き、橘井人を済ふこと五十年。ここにおいて、笏せずして相業を饒にし、樞有って、以て天心を転ずるものといふべきなり。
明治十九年十二月廿八日、病に罹り、溘焉として逝く。享年七十有二。邨東赤兀山の兆域に葬る。法謚して志篤といふ。遠近徳を追ひ、恩を思い、来たり弔ふ者酷夥し。
翁は山路氏を娶り、二男二女あり。長を莞爾といひ、今その家を督す。季は浦二といふ。一女は夭し、二女は某に嫁す。嗣子莞爾、一碑を建て功徳を不朽に垂れむと欲して、遠く文を余に求む。余その忠孝を嘉し、敢て辞せずして、その梗概を誌すといふ。
明治廿一年歳は戊子にあり、春二月
東京 中根聞撰并書及隷額 嶺田久七刻字
入戸野貞伯翁邸跡の画像


