参議院選挙公示日、雨の日に考えたこと

雨音のリズムに合わせて、貼りついてしまっている頭痛が音を立てている夜。鎮痛剤と酒、きっとよくないのだろうけれど、それもまた癖になってしまっている。ボンヤリとした意識と、底なしの哀しみ。

飛び魚の塩焼き

飛び魚を買ってきて塩焼きにした。この季節、もう少し夏に近いころか、故郷の海にはこいつが水面すれすれ、そうして船すれすれに、飛んでいた。その海は、豊饒の穢れをたっぷりとまき散らして、どんよりと澱んでいた。

ボクたちは、たぶん、貧しかったのだろうと思う。思う、あの頃のボクの世間は、その貧しさを教えてはくれなかった。貧しかったのだけれど、ボクたちには夢も希望もあった。白黒テレビの向こうには、なにか得体のしれない世界が広がっていた。それはボクたちからは遠い場所にあったとしても、なんとなく、手の届きそうな予感がしていた。

参議院選挙が始まった。

ボクたちに夢や希望をくれたそのテレビでは「選挙の争点」とか「最も重視すること」なんてことで番組が組まれている。

社会保障も経済も消費税も憲法改正もエネルギーも外交も安全保障も、なんだか分からない。

ボクたちに必要なのは、やっぱりあの頃のような夢とか希望なんてものを、みんなが、どんなに今は貧しくても、そうして今は苦しくても、今は哀しみの中にいるとしても、キチンと感じられる世界、それは嘘だとしても、その可能性を信じて、例えば一生懸命ガンバレるような世の中の雰囲気とか、空気とか、手触りみたいなもの、それが必要なのだと思う。

今日、ボクが、一番感動し、そうして、なにかそんな力強さを感じたのは、安倍総理の熊本演説だった。公示日に、その第一声を熊本で発する。熊本城をバックに演説すること。それはボクたちの痛んだ気持ちを復興させることを連想させる。それはとてもドラマ仕立てだとしても、そうしたドラマティックな変化みたいなものが、夢とか希望なんてものと繋がるように思う。

ボクたちに必要なのは、いつだって夢とか希望なのだ。そうしてそれは嘘でもいいのだけれど、信じるに足りる力強さが必要なのだ。ボクたちは騙されても良い。いや、国民に夢や希望を与えることこそが、為政者の責任なのだ。国民を酔わせることが、リーダーの責務なのだ。そう思う。

あの頃、ボクたちは貧しかったのだけれど、あの過熱した政治の、それは白黒テレビの中とか新聞の中のことだったのだけれど、そのコトバに酔って、夢や希望を持つことができたし、そして未来なんてものを想像することができるほどに豊だったのだ。

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