Say it with music!

音楽の話を少しだけ。

何回かに分けて・・・。

若いころのボクと言ったら、人見知りで人嫌いで、おまけにコトバなんてものを信じていなくて、失語症のようになっていて、そのせいか奇妙な出逢いとか恋愛なんてものを、これまた奇妙に経験した。

その頃から、集団生活なんてできないのだろうなあ、なんて考えていたもんだから(20歳とか21歳の若者が考えることではないのだろうけれど)、誰にも会うことなく生きてゆく方法なんてものを真面目に模索していた。集団の中での自意識と自己否定が鬱陶しかったのだと、今は、なんとなく自己分析したりするのだけれど。

そんな22歳の春に、ふとしたきっかけで笛吹に出逢うことになる。笛、と言っても、尺八なんだけれど、ボクの聴いたことのない音色を、その人は昼休みにはきまって、その笛で出していた。ボクは、そうそう、人見知りで人嫌いなもんだから、興味はあったとしても、なかなか話すことが出来なく、そのオジサンの笛を、いつも遠くから聴いていた。

一か月、そして二か月、それが日課になってしまっていた。

そして三か月ほど過ぎた今頃の季節に、「あの〜、ボクに教えてもらえないですか?」なんて弟子入りを申し出た。ちょっとドキドキして、そしてやっぱり今と同じように目を合わすことなく、こもった声で言ったに決まっている。

Oさんは「私の師匠を紹介してやるよ」と言ってくれた。Oさんも師範の免状を持っていたのだけれど「そのほうが早く上達するだろうからね」なんて付け加えた。そして「紹介状」みたいなものを早速書いてくれて「電話もしとくけれど、この住所に行くといいから」なんてことを言った。

ボクはその紹介状みたいなものを持って、すぐにまたいつもの定位置にもどって、Oさんの演奏を聴いていた。

たぶん、その次の日にその師匠のところへ行った。バイクで30分ぐらいの、ボクが住んでいた温泉街の隣の県庁所在地にボクの師匠になる九山師は住んでいた。「尺八は難しいよ」というのが師匠の初めてのコトバだったように憶えている。

その日に、まだ弟子入りするとも決まってなかったんだけれど、いきなり笛を吹かされた。少しだけ音が出た。一時間と少し師匠の稽古部屋で過ごした。憶えているのは、その「少し音が出た」のと、立ち上がった時に転んだことだ。だって正座を一時間もしたのは初めてだったんだ。

それがボクの尺八との出会いだった。もうずいぶんと前。きっとOさんがアルトサックスを吹いていたら、今頃はアルトサックス奏者になっていたかもしれない。

それからいろいろなことがあって、何年かのブランクはあったものの、30代初めには準師範にまでなって、笛吹に、出来の悪い笛吹になっていた。

その30代初めに免状をもらってから、ボクも、ボクのまわりもいろいろなことがあって、こうしてここにいることもその「いろいろ」のうちのひとつなんだろうけれど、笛吹から手を引いていた。時間とか場所とか、そして金銭的余裕なんてものもなかったのだ。音楽には場所が必要だ。アパートに、それも安アパートに住んで一番困るのは、音を出せないこと、そう思う。

そんなこんなで、この春、熊本の地震の前に、「もう一度笛吹になろうかなあ」なんて思って、何十年ぶりかに尺八を吹いた。手入れが良かったのか、もともと良い笛だったのか、二本の尺八(八寸管と六寸管)は、あのころのままだった。

笛はあの頃のままだったのだけれど、音が出なかった。悲劇的に喜劇的に、ボクはまったくの素人のようだった。指も動かなかった。

決断したその瞬間に、すぐに挫折しそうになった。やっぱり少しの時間でも続けなければいけなかったなあ。継続は力なり・・・。

なんて考えながら、どうしようかと迷いながら、もうずいぶんと前から知っていた泉州尺八工房さんへチューニングに出すことに決めた。何事も道具だ。

良い師匠と良い道具、これが習得の早道だ。都山流準師範のボクが言うのだから間違いない。

というわけで、チューニング(改作と泉州尺八工房さんでは言う)の終わった初代大西春山師作の八寸管が届いた。

結論から言うと、鳴る。チューンアップと言ったほうが良いだろう、鳴る。これで一年もうけた。あの悲劇的で喜劇的な再会から一気に免許皆伝ぐらいの腕前になった、そう感じる。それでもまたまだ皆伝だ。

ということで、今はこっそりと「慷月調(こうげつちょう)」を練習している。難易度の高い本曲なんだけれど、きっと一年も頑張れば、あの頃以上のクオリティになって、そうして笛吹として生きられるかもしれないと・・・。つづく。

大西春山作尺八

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