裏切りの街角
2016年5月2日
あの場所、ボクたちが暮らしていた熊本の街が、毎日のように写し出される。そのたびに、ボクは息苦しくなる。傷跡がボクたちの痕跡と想い出までも痛めつけてしまう。
どうしてボクはここにいるんだろう。
アパートの階段を上ってひとりぼっちの部屋にたどり着くと、涙が流れてしまってしかたない。でも、その涙は何の役にもたたず、誰ひとり救えはしない。無力さがまたボクを息苦しくさせる。酒も、コトバも、歌も、なにもかも、また無力だということに気づく。
ボクだけがこうして何事もなかったかのように暮らしているという罪悪感とか・・・。
そうして人を傷つけたあとにここで生きているという罪悪感とか・・・。
傷ついていない罪悪感とか・・・。
じゅんは避難所を出てアパートで暮らし始めている。「行ってきます」なんて、もう働き始めている人の、そんなメールに驚かされる。そうしてまたボクはあの頃のころを想い出す。そして傷つけてしまった人に懺悔することもせずに、ここでこうしてセンチメンタルな偽善者となって欺瞞に満ちた涙を流している。
アパート近くの公園の桜の木の話なんかするもんだから、地震が起きてしまったんだ・・・。
そんなことを考えても、やっぱり何もできないで、利己的に生きていこうとする、すべてを投げ出せないで、お腹が空いたなんて思っている疚しさや、洗濯しなきゃいけないなんて思っている図々しさや、死ねないでいる意気地なさなんてものに、哀しくなったりする。なんなんだろうね。どうしてここにいて、どうして生きているんだろうね。なんなんだろうね。
Mさん、どうも。
きっと、ボクたちにできることって、きちんと生きることなんだろうと、思っています。
ありがとうございます。
おひさしぶりです。
私たちに出来ることがなにかということを教えてくれるのも、笠山さんの出来ることだと思います。
きっと進まない復興に対してのメッセージだと考えてはいるのですが。
暑くなってきましたね。お仕事気を付けてください。