さよならさきちゃん

一通のメールが届く。
知らない人からメールをもらうのは、そう珍しい話でもなくて、これが手紙とかハガキなんかだと驚くということにもなるのだろうけれど、毎日毎日「今日の夜、してあげるよ♪」というタイトルでみゆきさんという人から、とか、「今週お時間ありませんか」というのが美香さんから届いたり、中には「かおりです。お久しぶりです。」というタイトルで

以前、連絡とっていた○○かおりですがわかりますか??
法律事務所を経営しているといったら思いだ出してくれますかね?
貴方のことがずっと、気がかりでまた連絡してしまいました。
以前は会うまでこぎつけませんでしたけど、今回こそは貴方に逢えればと思ってます。
もちろんタダでとは言いません。会ってくれるならデート代など全ての諸経費は私持
ちという条件付きです。
詳しい話は会ったときでもメールでもかまいませんので、とりあえず返信して下さい。

なんてついつい食いついてしまいそうなものまで来る。もしかしたら本当かもしれないと、こう書きながらも「諸経費って言っても…時給1000円とかもくれるのかなあ」なんて…。「もしかしたら」と思っている証拠に名前の部分は変えたりして…。
以前、連絡をとっていたかおりさんかあ…。
そんな中にそのメールはあって、ボクは少し驚いた。頭の中で「…」三点リーダーが繰り返し打たれる。機械的に、激しく虚しく…。
田原工場に勤務しているAさんからのメール。

食堂のさきちゃんは管理人さんと一緒にいるのですか?
管理人さんが満了になったと同じ時期にさきちゃんもいなくなったのですが、もしかしてと思いまして。

なんて内容の…。
そうだと嬉しいのだけれどね。残念ながら、ここにはいないのですよ。
もしも、今、隣にさきちゃんがいて、なんてことだったら、かなりドラマティックだったのだろうけれど、そしてそれはやっぱり驚愕の事件として一部では伝説になるような話になったのかもしれないけれど。なにしろボクたちは話したこともないしね。
それになんと言っても「年齢の壁」ということにしているボクの常識や義侠心、隔心、疑心、虚栄心や向学心や功名心、自負心や羞恥心や、貞心や道義心、あるいは蕩心なんてものが錯雑として胸中にあり、それらがボクの行動を制御する機能として働いていたしね。小心ということだ。
こんなこと、例えばボクがこんなブログを書いていると、ボクがかなり社交的で、なんて思うかもしれないのだけれど、それはかなりの部分で間違っていて、どちらかというと初対面の人とはうまく話せないような、ひとりでファーストフード店にも入れないような男だったりする。だから旅をした記事なんかには、食べ歩いた形跡がないのだよ。
そんな男が食堂の、まだ少女の面影の残るさきちゃんに話しかけたりできるはずないだろうし。かりにあったとしても、それは1直の朝御飯の時に、ボクたちは(なんて書き方も悪いのだろうね、正確には「ボクは」だね)たまに目と目を合わすことがあって、そして少しの会話、それは「ありがとうございます」「おはようございます」という一方的なそして事務的な、まるでこのエントリーを「記事」と言ってしまうような感覚のもの、だけしかなかったのだよ。
ボクは、たぶん、さきちゃんへの愛情というよりも、きっと、重い食器の入ったカゴや、冷水ポットを持ち運ぶ姿や、朝5時前には働いていること、そして何よりも、あの雰囲気の中ではかなり大変な仕事だろうと思っていて、そのことが「さきちゃん、頑張ってね」というメッセージとして、「かわいいね」という記号に変換されたり「目が合ってドキッとした」という気持ちの揺れを表現したり、したのだろうと思う。
それだけのことだったのだろうね。
食堂は、ボクたちのオアシスだったしね。それに受け入れの朝、第二食堂のK林さんのことは、かなりの確立でみんな憶えていて、それはまたかなりの確立で「刷り込み現象」としてK林さんを田原工場の母親みたいに考えた人も多かったのだろうね。
そしてさきちゃんはアイドルとして、ボクたちの(少なくともボクの)心の中に存在したということなんだ。
それだけのことだったと、実はボクは今確認している。「そっか、そんなことだったんだね」という感じで。ある日突然に。
さきちゃんは、まだ田原にいて、そして、まだメグリアにいるのだよ。第二食堂から違う食堂に移ったと聞きました。きっと、ボクはもう逢うこともないのだろうけれど、ボクと同じように思う人はかなりいて、食堂に行くことが、例えば「働いていること」と感じるのかもしれないね。
さよならさきちゃん、がんばるんだよ。

風に吹かれて散る花びらまとった君の花嫁衣裳
ボクだけが知っている春は
遠い昔になったけれど約束どおりやって来ました
汽車に乗り君を迎えに
ひっそりと咲く花の優しさをとても愛した君でした
すすり泣きの静かなお寺も今は花盛りです
「ひなげし」とんぼちゃん

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