年賀状とゆうメイト
年賀状とゆうメイト、クリスマスプレゼントを運ぶサンタクロースのようでもある。
アパートの近くに少し大きな郵便局があって(ボクの住んでいる市の本局なんだけれど)、元旦の朝にはかなりの数のバイクや軽四が出発しているのを見た。
年賀状とゆうメイト
配達式なんてのをやったのかやらないのかは分からないのだけれど、とにかく元旦早々に年賀状配達という儀式のために寒風吹きすさぶ中、あるいは吹雪く中、バイクで慶祝気分が充満した街を駆け巡る。日本版サンタクロースだなあ、なんて思ったのだけれど、それにその儀式を取り仕切る巫女だなあ、なんてことも思ったのだけれど、感謝されることもあまりなく、コンビニの店員がその衣装を着て「いらっしゃいませ」なんていうこともない。こっそりとひっそりとその任務は遂行される。
「毎度~、郵便屋です、年賀持って来ました」
「あら、郵便屋のこうちゃん、いつもありがとうね。はいこれお年玉」
なんてことも99%ない、と思う。
休めない人たち
それどころか、その寒風吹き荒ぶ、あるいは吹雪く中をバイクで走り回っているそのゆうメイトと言われる人たちは非正規社員だったり期間社員だったり、アルバイトだったりで、時給800円から1000円ほどでいらなくなったらポイっと捨てられる人たちなのだ。
そういう風景を見ると年賀状を出すことがなんだか悪いことのように感じる。せめて正月ぐらいは早く帰ってもらいたいと思ったり、そのために年賀状は出さないほうが人に優しいのではないかと考えたり。
そういうこともあって年賀状は数年前から出してない。ボクはそうなのだけれど、この国のよき風習だろうし文化なのだから国民的に中止するということ言えないので、元旦配達を止めて3日に配達するとかするのはどうだろうか、なんて考えたのだけれど…。
年賀状に限らず正月が書き入れ時というところも多いのだろうけれど、それに休むことが出来ない、例えば病院とか公共交通機関とかは……。しかたないのかなあ……。
社会とはそういうものなんだろうか。一斉に休むことなんて出来ないのだろうか。大部分の人は「休めない人」に助けられて生きている、と言えるのだろうね。身近な人たちだと、例えばコンビニの店員とかもそうだろうし、警察官や消防隊員、病院関係者、JRに私鉄……。盆も正月も関係なく働くし、親の死に目にも会えないのだろうし…。
不幸の連鎖の中で
それでも昔は今よりももっと多くの人たちが正月を休んでいた。だから御節料理や餅という保存食が必要だったのだろうしね。スーパーやコンビニが休まないから運送屋さんも休めないという連鎖の中にこの国があるのだろうね。
ボクたちが「便利だ」と思うことの裏には犠牲を払っている人が必ずいるのだろう。それが仕事だ、と言ってしまえばそれまでなんだけれど、ゆうメイトの人たちが震えているのを見ると、結局そういう人たちは報われないまま使い殺されるのだろうしね。
それでもその仕事を職業として考えることが出来ると良いけれど…。年賀状を運ぶゆうメイトは、きっと「面倒くさいなあ」なんて思いながら元旦の朝に年賀状を配達してんだろうなあ、なんて思った。そして配達が遅れたら「捨ててしまえ」なんてことも考えるだろうなあ、なんて思った。
文明(生活)が高度になればなるほど、人は多くの役割を分担するようになるのだろうね。割りの合わない役割を分担されてしまう人たち(それが格差だったりするのだろうけれど)に感謝する、そして守ってやるということ、それはごく普通のことのようにも思う。年賀状が元旦に確実に届くなんてことは奇跡なんだから。
幸せのための不幸
年賀状とゆうメイト、その奇跡を起こしている多くは非正規の人たちなのだ。だから、誰かが守ってあげないと、ただ利用して見殺しにするだけなら、人でなし国家ということになってしまう。


1月1日くらい公共的なものと緊急時に必要なもの以外は休んでもいいとは思います。
観光地などは逆に忙しい時期になりますが代わりにどこかで休んでもよいのではないですかね。
よく考えたらホテルや旅館などには定休日という考え方自体ないですから。
(季節によって休業するところはあるが)
仕事のために親の死に目に会えないという点についてですが
最近はそういった方が増えたように感じます。
冠婚葬祭による休みさえ許さないという雇う側の非情さや
それによって給料が減る事や解雇を危惧する働く側の不安感
があるのでしょう。
今思い出しましたが私過去に豊田郵便局(今は郵便事業会社なので○○支店になります)に年末年始のゆうメイトの面接に行きましたが不採用でした。
豊田市、みよし市(1月4日に市制施行)、田原市辺りだとトヨタの休業を利用して働いている方が多いと思います。