秋葉原無差別殺傷事件雑感

あの頃のボクたちは、あの薄暗く湿った工場と、その中でのボクたちの作業(仕事ではなくて作業だ)と同じぐらい、閉塞感に包まれた単調な日々を過ごしていた。めまいと息苦しさに、時として凶暴になったり、反対に自己嫌悪に陥ったり、躁鬱を繰り返すような日々を送っていた。
そしてボクたちの肉体、というよりも精神は逃げ場を失っていた。そこに来た時点で、多くのものを捨ててきていた。例えば失業するということによるそれまで築いてきた人間関係や、親子や兄弟というヒトという種としての深重な関係さえも絶ってきていたので、逃げ場を失った精神を救済してくれる場所までをも失くしていたということだ。
ボクたちは救われたかった。そういった関係の喪失は「相談する人」という救い主を失ったということだった。会社員であれば上司や同僚に相談することができただろうし、愚痴や悩みを話し合うこともできただろう。親や兄弟がいれば泣き言も言えたのかもしれない。オーム真理教事件以来、宗教に救済を求めることに用心するようになっていた。救われたいという気持ちだけが膨れ上がっていた。
派遣社員や期間工は上司もいなければ同僚もいなかった。同じライン上には同じ作業をする人はいたとしても、それは同じ会社の人ではなかったし、正規と非正規という違った関係の人たちだった。そしてライン作業という孤独な単調な作業は肉体の自由だけではなくて会話ということさえも奪っていた。労働組合でさえ守ってくれなかった。
誰でもよかった、のだけれど、誰に相談すればいいのか分からなかった。そして誰もいなかった。
秋葉原無差別殺傷事件の弁護側被告人質問が終わった。加藤智大は「(インターネットの掲示板は)私にとって帰る場所、自分が自分でいられる場所だった。掲示板上の人間関係は家族同然の人間関係だった」と言った。
ボクたち多くの非正規労働者は寮に住んでいて帰る場所があったとしても、精神の帰る場所は、やっぱりネットだったり携帯電話のような実世界とは少し違った場所だったように思う。寮には誰かが帰りを待ってくれているわけではなかった。そして「おかえり」なんて言葉を聞くこともほとんどなかった。
誰かに話したかった。そして誰かに悩みを相談し、誰かに愚痴を聞いてほしかった。普通のサラリーマンが普通にしているように。誰に相談すれば良いのか分からなかった、というのがボクたちだったように思う。
そしてとうとう加藤智大はああいう行動を起こしてしまった。たくさんの人間のいる日曜日の秋葉原で。そしてその行動も「誰でも良かった」のではなくて、「誰を殺せばいいのか分からなかった」のだ。ボクたちの人間関係はそういうことになってしまっている。相手がハッキリしない。労使関係がハッキリしないということ、いや自分の存在位置が明確化しないことこそが派遣労働の問題点でもある。だから殺す相手を探していた。誰を殺して良いのか分からなかったのだから…。
自己責任にしてしまう人はもっと簡単な結末を迎える。自殺だ。自分が悪いという結論を導き出す。関係性の喪失と希薄化は人殺しと自殺を多くする。犯罪を多くする。
ボクたちはほぼ同じような生き方をして、同じように自動車工場で働いていた。少しだけ何かが違ったばかりに、愛知や静岡に故郷を離れてやってくることになった。たぶん、ボクが加藤智大になっていたとしてもおかしくない話なのだ。
そして今は加藤智大が働いていたトヨタグループの関東自動車工業東冨士工場で製造されたトヨタコンフォートに乗って仕事をしている。何か因縁めいたものを感じたりもする。いや、生産や消費というこの国の経済の象徴が自動車なのだから、ほとんどの人がその自動車になんらかの関係を持っている。ほとんどの人が非正規労働の問題、加藤の事件と無関係ではないということだ。被害者でもあり加害者でもあるということだ。
もう少し、もう少しだけリーマンショックが早く訪れていて、加藤も「派遣切り」という理由で、自己責任ではない理由で解雇されていたら、その「誰」が分かったかもしれない。いや、きっと、景気が悪いのだからと思って自分も人も責めなかったのかもしれない。そしてボクと同じようにコンフォートを作るのではなくてコンフォートに乗っていたかもしれない。
派遣切りや非正規雇用の問題点が浮彫にされる前、未曾有の自動車バブルの頃、そういえばあの野依台のトヨタ自動車の寮の建設が終ろうとした頃、ボクたちはあの薄暗く湿った工場と、その中でのボクたちの作業(仕事ではなくて作業だ)と同じぐらい、閉塞感に包まれた単調な日々を過ごしていた。めまいと息苦しさに、時として凶暴になったり、反対に自己嫌悪に陥ったり、躁鬱を繰り返すような日々を送っていた。ちょうど回し車を回すハムスターのような一日を送っていた。それは永遠に続く罰のようにも感じていた。ボクたちの過去の贖罪のための…。
雨の国道259号
(7月31日16時06分:加藤智大の弁護側被告人質問が終わった後に…)

3件のコメント

  • blank

    誰かに話したかった?
    誰かに愚痴を聞いて欲しかった?
    お前、やはり矛盾しているぞ!
    人とかかわり合うのが嫌だと言っとったやないかい!
    要するに普段は接したくねえが、寂しくなると人と交わりたい訳やな。
    お前みたいな奴を何て言うか知ってるか?
    自己中って言うんじゃ!ボンクラが!
    それにお前には馬鹿加藤みたいな事は無理や!
    お前にそんな大それた事が出来る訳がねえだろ!
    所詮、小心者で高卒の馬鹿や!
    ガハハハ!
    博学気取っとるが、暇をもて余してるからちょっとかじって、さも勉学に勤しんだと思われてえだけだろ?
    九州の恥さらしが!

  • blank

    月ノヒカリさん、こんにちは。
    家族に頼れるというのは、また幸せなことなのだと思います。ホームレスの方にも頼れる人と頼れない人がいて、多くは頼れない人だからホームレスになるのでしょうし。
    頼れる人がホームレスになった場合は、きっと人間関係が豊かになるのかもしれませんね。
    そうでない人は、どんな環境だろうと孤独なのだろうと思います。
    最近は人間関係がうまく築けない人がホームレスになるケースも多いのではないかと思います。
    ホームレスが孤立化するから、襲撃もされたり、のざらしになったりもするのだろうし…。
    ホームレスも多様化しているということもあるのかな。
    今日はほんとうに寒かったですね。暖房を入れました。ありがとうございます。

  • blank

    田原笠山さん、お久しぶりです。
    実は、ある方から「タクシー物語」のブログの存在を教えていただき、ひそかに読ませていただいていました。
    まだ少ししか読んでいなかったんですが、今後こちらで読めるのかな、と楽しみにしています。
    私も人間関係の貧しさは、加藤被告とそんなに変わらないです。
    精神的には、ネット上にしか居場所がない状態。でも、ネットがあるからかなり救われてます。
    ただ、経済的・物理的な問題は、ネットではまず解決できませんね……。
    家族の存在は、救いでもあり、苦痛でもあるという感じです。
    先日、ホームレスの方のツイッターを読んでいて、ある意味一人暮らしよりも、ホームレスの方が人間関係が豊かなのかもしれない、と思ってしまいました。
    もちろん、大変なことの方が多いのでしょうが……。
    http://togetter.com/li/60272
    ずいぶん寒くなりましたので、田原笠山さんもどうかご自愛ください。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA