彼女の死

あの頃、ボクたちの周辺は息苦しいほどの悲壮感に包まれていて、冬枯れた風景がそれをさらに重いものにしていた。ハローワークのロビーに座り込んでは日がな一日窓の外を睨みつけていた。そこにいることが唯一の救いだった。箱舟はそこから出発するはずだったし、その情報や権利を獲得する聖なる場所でもあった。そう思っていた。たとえ幻想であったとしてもだ。
あの頃、2009年の1月、前年秋のリーマンショックからの未曾有の不景気は多くの非正規社員の生命を奪った。何か物でも捨てるように切り捨てられた人たちが希望を探しにハローワークに集中した。その希望は「生きたい」ということだったのだけれど、「美味しいものを食べたい」とか「洋服を買いたい」なんてことよりは難しいことのように思えていた。
その派遣切りというこの国の雇用史上最悪の事件、国や企業が犯した最大の罪の被害者たちは、過ぎ去った季節とともに癒やされ今は慰安の日々を過ごしているわけではない。いまだに後遺症で苦しむ人たちが多い。そのことはあまり知らされていない。失業率なんて数字で全てが解決できるように思い込んでいる人も多い。それもまた何か物のような扱いしか出来ないでいることの証なのだけれど。

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「派遣切り」が社会問題化していた昨年1月、当時「谷岡」姓だった宇野さんは、愛知県岡崎市からわずかな荷物を手に、雇用促進住宅に入居した。真冬だったが毛布さえも持っていない宇野さんに、住民たちは生活する上で最低限の物資を譲りあったという。

愛知県、彼女が派遣社員として住んでいた岡崎市や豊田市、そして豊橋市や田原市には、多くの人たちが全国から夢を求めて集まっていた。
その夢とてやはり「生きたい」というごく普通のことだったりもした。愛知県に来た時点で、ボクたちは失業していたし人生にかなり疲弊していた。「派遣」という選択をした時点で、世間と繋がったかなりの部分を切っていたし、切られていた。そしてとうとう派遣という最後の望みまで断ち切られたのだ。
路頭に迷う。そして迷ったボクたちが行き着いた先はハローワークのロビーだった。派遣という最後の光まで消し去られたボクたちは、残った熾で暖を取るような日々を送った。
そして彼女は雇用促進住宅という箱舟に乗った。ハローワークで紹介され、ホームレスになることだけは回避できた。回避できたのだけれど、彼女が生きるためには仕事が必要だった。仕事を探すためには家もだけれど、人が必要になる。住所があれば雇ってくれるわけではない。保証人が必要になる。
人が生きるということは、人と繋がることなのだ。
ボクたちは派遣になる前に失業して、そして人生にかなり疲弊していた。そして切られて人生に絶望していた。それを救うのはやっぱり人でしかなかった。ハローワークに集まったのは職を求めるということだけではなくて、人を求めたということもあったのだ。ボクたちは人に救われたかった。宗教でもなんでもよかった。派遣村でも公園の炊き出しでもなんでもよかった。
彼女もそうだった。人は決して「おひとりさま」では生きていけない。だから、派遣切りの友達をその雇用促進住宅に呼び一緒に住んだ。
そして養子になり死んだ。
人はひとりでは生きていけない。人を殺すのも人だとしても。彼女は派遣切りされた時点で死んでいたのかもしれない。それほど生きるということは難しい。豊な国と言われる日本なんだけれど、人情ということについては最貧国なのだ。人が人を切るのだから。簡単に切るのだけれど、働くためにはいろいろな条件を提示する。保証人はとか資格はとか年齢はとか…。
切られた非正規社員たちはいまだに後遺症に苦しんでいる。なにかいろいろなことが解決したように思っているのだろうけれど、彼女の死はこの国の生きにくさがもたらしたものなのかもしれないと思っている。
杉山駅あたりから田原市・蔵王山
杉山駅あたりから田原市・蔵王山

9件のコメント

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    朴念仁さん、こんにちは。
    渥美半島には古い遺跡もあって、海から渡ってきた人もいるでしょうしね。
    昔からいろいろな人がいろいろなところからやって来た場所なのでしょうね。
    故郷への意識は、どうなんでしょうね、人それぞれでしょうしね。年齢にもよるのだろうし…。
    朴念仁さんにとっては「そう言うところ」なんでしょうし。

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    豊橋・・・吉田のルーツはもっと古いところにあるのではないか?と思っています。
    ここは、織田と今川で奪い合っていた領地です。そのころからいろんな人が入ってきては去りを繰り返しているところで、地元土着意識が薄いのではないかと思います。
    私の同級生でも、豊橋を去ったものはかなり多くおり、あまり故郷豊橋という印象がありません。そう言うところだと思っています。

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    >切ないさんへ
    どうも。
    先輩タクシードライバーですね。
    そちらはどうですか。こっちは悪かった去年よりも今年のほうが悪いみたいで。
    3割なんて人が足を切っているような状態です。
    お客様が乗車するときのドキドキ感は癖になりますよね。一度やったら病みつきになる職業なのかもしれないと思っています。
    そうですね。事故を起こしたらなんにもなりませんからね。またいろいろお話を聞かせて下さい。
    >朴念仁さんへ
    企業城下町というのは、そういう構造になりますよね。それに集団就職でやってきた人たちの2世3世の人たちにとっては、もうすでに「地元」でしょうし「故郷」でしょうしね。
    ま、そういうことです。

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    コメントありがとうございました。
    「運ちゃん」は失礼しました。
    豊橋はよそ者に寛大か・・・そうですね、まあ確かに子どもの頃から当たり前のようにいろんなところの出身者がいましたね。
    寛大というのか、あまり関せずって感じなのかも知れませんが・・・
    僕が、豊橋を離れた頃に、日系ブラジル人の数も増大したように思います。
    安全運転を御願いしますね。

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    はじめまして。
    笠山さんはチャレンジャーだと思います。
    私は田原1製部品課 満了後地元に帰ってタクシードライバー7年目です。
    色々な事がありましたけど今では楽しく?やってます。
    安全第一でボチボチやって下さい。

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    朴念仁さん、こんばんは。
    仕事は、例えば九州や東北なんて地域よりはあるでしょうね。
    最近ではトヨタなどの自動車関連、昔は紡績工場に集団就職していた土地柄ですから、よそ者に寛大な土地のように感じます。
    というか、豊橋市内にはそういう人たちの2世3世が多いですからね。
    あ、それと「運ちゃん」と最近ではあまり言いませんよ。良い言葉でもありませんしね。
    う~ん、人のことは解らないのが当たり前かもしれませんね。だって全てを知っているわけではありませんしね。

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    田原笠山さん。お元気そうで何よりです。
    田原工場で期間工の話をよく読んでいました。
    1つ気になったのですが、どうして、また「豊橋」という場所でタクシードライバーを始めたのですか?
    僕は、高校卒業して豊橋をでました。今年で、故郷よりも外にいることが長くなりました。豊橋に戻りたいと思ったことはあまりありません。仕事もありませんしね。
    どうしてこの町でタクシーの運ちゃんを始めたのか、僕には解りませんでした。住みやすい街ですか?ここは?

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    じゅんじゅんさん、こんにちは。
    お久しぶりですね。
    どうしたのですか?
    身の程を知るということは、どうなんだろう、それはそれで明日に繋がるのでしょうね。
    ボクは、自分に自信がく、出来ることを用意周到にするタイプなので、面白くない人間なのかもしれません。
    いろいろなことにチャレンジするということ、ま、負け戦をしないようなタイプは強くもなれないのだろうと思います。それがボクだったりするのですが…。

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    社会の厳しさを痛感する日々です。自分の身の程をおもいしりました。田原さんは、立派ですね。

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