I don't want to live.I'm tired.

かなしみの秋がまたやって来た。
こうしてひとりぼっちの休日を過ごしていると、人生の意味とかボクの存在なんてことを、また考え始めてしまう。家族も親戚もいない生活をしていると、例えば今日このままボクが死んだとしても、それは「稲刈りが始まりました」ほどの質量のニュース、そしてその記憶でしかないのだろうと思ってしまう。
人は人との繋がりの中で生きている、あるいは生かされているとしても、その実感がない。多くの人はその人の人生の周辺に喜びや悲しみを共有する人がいる。そういう人が見当たらないというボクの場合は、その繋がりという社会の仕組みとは少し離れた場所にいるように感じる。あるいはボク自身がそういう孤独という立場に居心地の良さを感じている。
知らない街に住むようになると、普通は知合いを作ろうとするのだろう。だけれどボクは、そういったことが面倒だし苦手で、自ら作ろうなんて思わない。それにそういう関係を作ったとしてもボク自身の性格がそういう関係に対しての信憑に懐疑的なのだ。だから友達と言える人もいない。向こうは「友達」とボクのことを思っていたとしても、ボクが思わないということもあるかもしれないけれど。
なんのために生きているのか、ということが分からないでいる。いや、アフリカやインドなんて国に旅行に行きたいという気持ちはあるのだけれど、それは特に生きるための夢や目的にしなくても、今すぐにも出来ることなんだし、そのためにこれから長い人生を窮屈な思いをしてまで生きていく必要があるのかと思うほどの動機なのだろうし。
いったい人は何のために生きているのだろうか?
多くは家族のためとか子供のためなんてことだったりするのだろう。「この国のため」なんて奇特な人もいるだろうけれど、結局は自分と自分の近くの人のためなんだろうと思う。
「なんのために生きているのか」ということを考えられるほどの自由、あるいは豊かさの中にボクたちはいるということも分かっている。そういったことを考えられないで生きている人も世界には大勢いるということも分かっているし、見てきた。
命を捨てる覚悟で生きていたこともあることはある。たぶん、人よりは強くそのことを考えていたこともある。今は、身捨つるほどの人生はありや、なんて思っている。人は何のために生きているのだろうか?空腹を満たすためだけならば、なにも嫌なことをしてまでも働くこともないだろうと思う。
その嫌なことを捨てると空腹も満たされないという恐怖の中にいるのかもしれない。仕事を辞めることの恐怖ということだ。年齢とともにその恐怖は大きくなる。失業=生活レベルの引き下げ、あるいは、失業=貧乏生活、失業=ホームレス、ということへの恐怖。
食べて寝るだけの人生ならば、朝早く起きて、夜遅くまで働くなんてことをしなくても、なんて思ってしまう。もう少し貯金が出来たら、旅を住処にしても良いと思ったりもする。食べて寝て歩く、そんな毎日を送りたいとも思ったりする。そんな毎日も、やっぱりひとりぼっちなんだけれど、それはそれで人嫌いのボクには似合っているかと思う。
何のために生きているのだろう…。
かなしみの秋がまたやってきた。憂鬱な毎日の中で、ボクは死ねないでいるということだけで生きているのかもしれないと思うのだよ。
枯花

2件のコメント

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    ルノアさん、こんにちは。
    前の2つのコメントは、公開しませんでしたが、ありがとうございます。
    ま、動物、というか生物的にはそうなんですが、遺す必要があるかどうかということを、人は考えますから…。
    あるいは、自分の遺伝子が、自分と同じ道を歩くということへの戸惑いというか危惧というか、そういうものもあるでしょうしね。
    これからはもっと厳しくなる世の中に、自分の子供を放つ勇気もないし、なんて人も多いのだろうし…。
    やっぱり考えることが出来るからこそ、他の生物とは違うのでしょうね。

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    一つだけ、確実に言える事をがあります。
    「人は何のために生きているのか?」
    その答えの一つは、”遺伝子を残すため”
    人は生物という宿命から逃れることはありません。
    利己的な遺伝子によって、われわれは根本的に操られているのです。
    いかに自己の遺伝子を遺伝子プールにおいて、
    多数派を占められるかが重要なのだと思います。
    こう思うと、少しだけ気が楽になるように思えるのは、
    わたしだけののでしょうか?

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