茫漠

旅を住処とするほどではなかったにしろ、よく旅をした。こうして知らない街に移り住んでいること自体、なにか旅のようにも感じる時がある。
「エチカの鏡」を見ている。「人生を変える旅SP」という番組内容。その中で石田衣良さんが「自分の人生を無駄に使うことのできる豊かさ(贅沢だっかな)」なんてことを言っていた。なるほど。
「経験という無駄な時間」とボクはボクの旅を振り返っては思っていた。だって、何かを求めたとしても旅で得られたものはほとんどなかったし、今もそう思っている。
では、なぜ旅をするのかというと、無駄という贅沢なのかもしれないと、今考えている。その無駄という贅沢が人生にどう影響するかなんてことも分からないし、有効なのか無効なのかということも分からない。旅が担保するものなんてものはない。
それでも人は旅をする。というか、旅をする動物なのかもしれない、と思う。それはもうボクたちの遺伝子の中に組込まれたシステムのようなものなのかもしれない。1000年なんて単位で移動続けてきたボクたちの祖先の血なのかもしれない。旅を続けたことによって生存できたという細胞の記憶なのかもしれないと思う。
旅に何かを求めると裏切られる。人生観が変わったなんて気安く言う人がいるけれど、それは元々人生観なんてものを持っていなかっただけの話だ。自分を変えたいなんて理由で旅して、そして「変わった」と軽軽に言う人もいる。でもそれは、元々変わるほどの自己が無かっただけの話だろうと思う。
となると旅とはやっぱり「贅沢」なのことなのかもしれない。金銭的なことではなくても、その「人生」を無駄に使うことだろうし。
例えば、飢えや餓えに苦しむ土地の人々には、旅をする自由だってない。それどころかホームレスになることも、自殺するなんて負の自由もない。貧困というのは自分の人生を自分のものとして自由に使うことが出来ないということだ。ただ物が豊富じゃないというだけの話ではない。自由ということの貧困こそが問題なのだ。
そう考えていると、どんな形であろうと旅をする/出来るということは、贅沢なことなのだろう。そしてそれは自由だということの確認なのかもしれないし、もうすでに旅に出た時点で欲求は満たされているということなのかもしれないと思う。人は出費する快感を知っているのだし。それは金銭だけではなくて、時間とか、汗とかなんてものもあるだろうし。行動こそ快感なのだろうね。きっと。

1件のコメント

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    爆笑スランプの旅人よ!を唄ってやろうか?
    旅人!格好いい!

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