セミのような人生なのかもしれないね

久しぶりにSくんとお酒を飲むことになって(というよりも外食するのが久しぶりだったのだけれど)、広小路の花の舞に行った帰りに見た月は満月に近かった。昨夜はもう半分ぐらい欠けてしまっていた。まだまだ暑いのだけれど、吹く風には秋の気配がする。次の満月はもう中秋の名月、そんなことを考えているとなんと時間の早いことか。
夏休みも終わりで、子供たちは少し緊張した夜、そして朝を迎えたのだろうね。子供というかなり狭い空間の住人にとって、全てはやっぱりその狭い空間の中にあって、さらに学校と言う空間が彼/彼女の生活を支配する。
どうも小学生とか中学生とかはその頃の少し偏った自意識が「孤独」を悪いことにしてしまうのではないだろうか。初めて彼/彼女たちが集団に入る時に大人たちは言う。「友だち100人できるかな」と。
友だちの数が彼/彼女たちの点数であるかのように思ってしまう。「友だち100人」という目標を課せられてしまう。
そういうおとなたちに友だちが100人いるかというとそうではなくて、そしてそんなに必要ではなくて、たぶん1人とか2人いればそれで事が足りる、ということのほうが多い。あるいは家族という友だち以上のものの存在が100人分だったりする、ということが分かる。
100人の友だちよりも1人の親友、あるいは1人の家族、のほうが大事なのだけれど…。
そのひとりに出会うためにボクたちは生きているのかもしれない、そう思う。そんな貴重な出会いがそこいらに転がっているわけがない。だから多くの集団を経験する。クラスが替わったり、中学生になったり、高校生になったり、そして大学にも行けば良い。それでも見つからないことのほうが多いのだろうと思う。いつかは見つかるとしても…。人生は旅みたいなものなのだろうし……。きっと。
部屋に訪れたセミ
例えばセミのような人生なのかもしれない。人生の多くは暗黒の中にあって迷いの中にある。

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