龍馬伝を見て思ったこと

「日本が戦争に勝っていれば」
海外駐在所の所長をしていた昔の上司が酔うといつも言っていた。あまり英語が得意ではなかったのだけれど、駐在所所長としての業務を、そして負った責務を遂行していた。それなりの業績もあげていた。ずいぶんと苦労したのだろうけれど、結局不得手なままだったのだろう。
大泉洋演ずる近藤長次郎がトーマス・グラバーと汽船ユニオン号の売買交渉のときに「Nice to meet you」しか言わない(たぶんそのセンテンスすか知らなかったのだろうけれど)シーンがあったのだけれど、多くの人はクスクスと笑ったのだろう。ドラマの演出家もそこは笑わせるシーンとして意図的に仕掛けたのだろうと思う。
当時の日本の英語力なんてのはあの程度のものだったのだろう。
「あの程度のもの」だったのだけれどそういった売買を行い、そして日本を開国に導いたのだから、行動力とか政治力とか交渉力なんてパワーは拙い英語力をも補うに余るもの、というか、そういった力と言語力とは別物なのだろうと思った。
昔の上司もそれを感じさせる人だった。語学は別物、押しの強さとか直観力なんていうカンとかが優れている、そう思わせる人だった。
確かに「日本が戦争に勝っていれば」と言わせるぐらい英語力の必要性は感じていたのだろうし、ないよりもあったほうが良いに決まっている。ところがその言語能力の優劣だけで交渉がうまくいくわけでもないし、異文化間のコミュニケーションが円滑に行えるということでもないだろうし、リーダーシップが取れるわけではないと思う。
そういうことで優劣をつけるのならば、「英語の出来る日本人」よりも「日本語の出来る英語圏の人」のほうが優秀なのではないかと思ったりもする。あるいは日本語が出来なくてもなんら問題ないということにもなりかねないし。コミュニケーションの手段としての語学、その道具としての語学力だけで雇用するしないということになると、言い換えれば料理人の面接でその人の包丁だけを見て合否決定するようなものじゃないかと思ったりもする。一流の料理人は道具の手入れも一流なのだろうけれど、包丁の種類もいろいろだろうし、包丁を使わない料理人もいるだろうし…。
もう分かっていると思うけれど、楽天やユニクロが社内公用語として英語を使用することを決めたという話。英語が出来る人材を雇用するという方向になりそうだし、出来ないといろいろな不都合が生じそうだ。英語が出来る能力のある集団を作る、ということは、巨乳の女の子を集めたイエローキャブみたいなものか、なんて考えていると、ま、それもそれでありかなあ、なんて考えている。
「Nice to meet you」だけでコミュニケーションしてしまう近藤長次郎のような怪傑が出る余裕のない世の中になってしまうのだろうなあ、なんて考えていると、言葉という道具の優劣でその人の優劣を決めてしまうような社会になることだけは避けてもらいたいと思っている。というか、日本の企業が日本語を社内公用語としないでどうするんだろう、なんてことも思っているのだけれど。
「日本が戦争に勝っていれば」英語なんて勉強しなくてもよかったかもしれないなあ…。
豊橋市、守下交差点、朝
守下交差点、朝

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