盆帰り

宮崎へ帰省されていたお客様を乗せた。
豊橋に来て30年、故郷に住んだ年月よりも長くなった。その間に結婚し出産した。両親は故郷ですでに他界し、兄弟や親戚がいたとしても、家族と呼べる人たちは豊橋にいる。故郷は両親の死と共に遠くなる。
30年、いや40年前には集団就職なんてのがあって、遠く九州から紡績会社へ就職するために、愛知県にもたくさんの中学校を卒業した女の子たちがやって来た。15歳で親と別れて寮に住み働かなければならない時代が、ほんの少し前まではあった。そして多くは定時制の高校に通った。少ない給料から仕送りをしていた。その仕送りのおかげで弟や妹は高校へ進学することが出来た。「口減らし」ということだったのかもしれない。
いやそのお客様が集団就職で豊橋に来たというのではなくて、紡績会社のある/あった地域は「金の卵」を必要とした時代があったということなのだ。そして豊橋もその地域のひとつだったのだ。
15の春は哀しい春だったのだろうと思う。
彼女たちの楽しみは、というか、希望は、お盆だったのだろう。お盆になれば田舎に帰ることが出来た。まだこの国が貧しかった頃の話、そして平等に貧しかった頃の話、それでも希望や夢があった頃の話、「非」なんて就職差別もなければ、頑張れば出世も出来た頃の話なのだけれど。

おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よくりゃ早よもどる
おどんが打死んだちゅて 誰泣いてくりょか 裏の松山 蝉が鳴く
ねんねした子の 可愛さむぞさ 起きて泣く子の 面憎さ
花はなんの花 ツンツン椿 水は天から もらい水
農家に生まれた女の子が口減らしのため子守奉公に出される。今では信じられないような話ですが、まだ、日本の国が貧しかった70~80年前までは全国どこでも聞かれた話です。特に五木は源氏の末流とされる33軒(幕末頃)の旦那と呼ばれる庄屋が村の山も土地も支配するという時代が永く続き、貧富の差が激しい社会で、貧しい家に生まれた娘は十歳になる前に、旦那の家、上球磨、人吉、小川などに守奉公に出されました。
正調 五木の子守唄(せいちょういつきのこもりうた) 五木村 – 熊本県庁

今は、遠く九州や沖縄から派遣社員や期間工として愛知にやってきたとしても、あの頃のように希望や夢があるわけではないのだろう。あの頃は、まだ努力の信憑性もあったし、企業も労働者を人として尊び育ててくれた。そういう手間を省略するようになった。そういう手間さえも「コスト」という削減するものにしてしまった。
15の春は哀しいものだったのだけれど、「盆ぎり」という夢も希望もあった。今はキリがなくエンドレスに絶望がボクたちを囲む。囲まれてしまっては閉塞してしまう。死ぬまで戻れないということに気づかされてしまう。
集団就職ではなくて、派遣や期間工なんていう個人就職して愛知にやってきた多くの若者たちは、失職し再就職もままならずにホームレスになる人もいたり、風俗店で働く人もいたり、タクシーの運転手になる人もいたり、そして中には自らの命を断つ人もいる。
せめて全ての人が「盆帰り」が出来て、綿々とした過去を振り返ることによって、同じように綿々とした未来を想像することが出来ると良いのだけれど。自分の将来をも悲観し絶望してしまっては、彼/彼女たちの入る墓やその墓参りをする人を想像することも出来ないでいるのだろうと思う。そう思った。

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