豊橋祇園祭

お祭りにあわせたかのように梅雨が明けた。
海の日、そして子供たちは夏休みになり、一気に夏本番。空も夏色をしていたし、その間にはやっぱり夏らしい雲があった。
花火は人混みを避けて見た。路地から見た。その路地には老人たちも椅子に腰掛けて、団扇で風を送りながら見ていた。フィルム・ノワール、光と影、暗闇の中煙幕の向こうに花火が上がる。
そういえばあの駅のホームレスのお姉さんやオジさんも花火を見たのだろうか。松葉公園やつつじが丘にいる人たちも見たのだろうか。いやきっと見たに決まっている。花火はそのために高く上がる。ホームレスの人たちだけではなくて、病に臥している人も、刑務所の中で懺悔の日々を送っている人も、そして仕事をしている車中のタクシードライバーも、遠くから見ることが出来る。見ることが出来なくても音を聞くことが出来る。
入場料も入場制限もなにもなしに見ることが出来る。たぶん、それが花火なのだろうと思う。人生は不自由だ。そして閉塞感につつまれている。だけれど、なにかひとつぐらいは希望がある。なにかひとつぐらいは良いことがある。なにかひとつぐらいは待ち望むものがある。その象徴が花火だったりするのだろうと思った。
多くの人が自殺する。多くの人が住む場所を失くす。多くの人が哀しみや苦しみの淵にいる。それでも、春には桜を見て、夏には花火を見て、秋には紅葉狩をし、冬には雪景色を見る。そういった繰り返しを思うことが何かひとつの希望になるのだろうと思う。
梅雨が明けた、そして夏が来た。
豊橋祇園祭の花火

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