父の日に

父親が病気になり入退院を繰返すようになってからボクたち父子は面と向かって、そしてゆっくりと話せるようになった。それまでは少し怖くて、少し嫌いで、少し面倒くさい、と感じていた。母親がいないと家でも何か気まずい時間が流れて、沈黙することが多かった。
父は病院で死んだ。まだ60代前半だった。10年間入退院を繰返しての死だった。病状が少しよくなると「家に帰りたい」といつも言っていたし、医者の許可が下りれば外泊でも帰っていた。家に帰ったとしてもただベッドに横たわっているだけで、何をするわけではなかったのだけれど、自分が生まれ育った土地に何かしらの治癒力を感じていたのかもしれない。遠く聞こえる潮騒や運ばれてくる海の香り、水や空気の味や感触みたいなものに癒やされていたのだろうと、思う。
父の身体がどんどん小さくなっていき、そして体重が40キロを切るぐらいになると、ボクは悲しいという気持ちよりも、なにか愛おしさみたいなものを感じていた。その頃になるとボクはよく父のベッドに腰掛けて話をするようになった。親子という血の関係よりももっと深い、何か魂の繋がりみたいなものを感じていたし、それは親子という縦の関係、あるいは時間の繋がりよりも、もっと深い、例えば男と女の関係のようなもの、そんな感じもしていた。
あれから、十数年が過ぎた。病院での日々が父との想い出の大部分だったりする。そしてもっと遡って、父の肩車に乗って散歩した日々のことをよく思い出す。父親は少しダラしなかったり、少し弱かったり、少し寂しがりやだったりするほうが良いのかもしれない。
ボクはいつも「父だったらどうするだろうか」とか「父だったらどう考えるだろうか」なんてことを事あるたびにイメージしていたのだけれど、相談することはなかった。そういう関係にはなれなかったのだ。父親のベッドに腰掛けるようになるまでは…。
多くの父子がその関係をうまく築けないでいるのかもしれないね。父と娘、父と息子の関係は、母と娘、母と息子のそれよりも難しいのだろうし。「親になったら解る」なんてことを言うけれど、親にならなかったボクには結局父親の気持ちは解ることがないのだろう。想像はつくとしても、実際に経験することは出来ないのだから。
そういうことが親不孝なのかもしれない。「オレの気持ちなんて解らないだろ」なんてあの世で言っているかもしれない。いや誰かの親となったとしても解らないかもしれないのだけれど。
父の日には父のことを思い出す。それが一番のプレゼントかもしれない、そう思う。というか、そのために父の日があるのだろうし。プレゼントをやるやらないにしろ、父親のことを考える日なんだろうから。
「父親のことを考える日」なんだろうね。それはたぶん「母の日」とは少し違うのだろうと思った。

おやじが全てだなんて言いませんよ
僕一人でやった事だって沢山ありましたよ
一つだけ言ってみたいのは
おやじが人を疑うことを教えてくれたこと
おやじは悲しいくらいに強い人でしたよ
「おやじの唄」作詞・作曲/吉田 拓郎

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