文七元結

休日、引籠っているのもなんだから、散歩がてら生協に行く。タマゴの値段が少し高く感じるのは、「鳥インフルの影響なのだろうか?」なんて考えたのだけれど、高く感じるにしても一パック200円もしないのだから、まだまだ対栄養価なんてことから言えば安いのだろうと思う。
結局、タマゴとほうれん草、納豆なんてものを買った。すっかり春で、今日なんかは歩いていると汗ばむほどの気候だった。桜もすっかり散ってしまっている。ベランダの花の植え替えもしなければならない。
帰ってきて、ニンニクの茎と豚足を炒めて、それをつまみに酒を飲み始めた。テレビのスイッチを入れると高橋克典さんが川に飛び込もうとしている…。ドラマ「誰よりも君を愛す」が始まったところだった。よく見ると落語「文七元結」と同じ構成だ。「ん?」なんて思いながら見始めた。主人公幸平は元結屋にならずに、助けられた鰻屋の婿に入るという設定。久しぶりにテレビドラマを見た。そう言えば最近はテレビ自体から遠ざかっていた。
2つ前のエントリーに、その「文七元結」のことを書いた。こんな時代だから人情なんてものが必要なのかもしれない。そんな義理人情なんてものを粗末にしてきたのが今風の社会で、例えば「会社は株主のもの」なんて発想も殺伐とした精神風土にこの国の人たちが変わったから言えるのだろうと思ったりする。合理性、利益の追求なんてこともそうだろうし。
週刊ポスト4月15日号に「忘己利他(誰かのために祈る)」という瀬戸内寂聴さんの誌上説法という記事があった。「幸福を守るのはお金ではない」という段で

戦後の日本人は、金や物といった目に見えないものばかりを大事にしてきました。(中略)その情熱によって、何もなかった日本は世界で有数の経済国になったでしょう。
でも、そのとき心はどうだったでしょう。幸福を守るのはお金ではなくて目に見えないものなのに、それをどう扱ってきたか。だからこそ、いま最も疎かにしてはならないのか心です。祈りです。そして知識ではなく、人に優しく振る舞い、困っている人たちを助けようとする智慧です。
たとえあらゆる物が消えてしまっても、体が残れば必ず心は残る。心さえ失わなければ、人はなんとかやっていける。

「なんとかやっていける」というのは、その心と心の関係が残っていれば、要するに人情とか義理なんて人との繋がりがあれば、ということなのだろう。それは生身の人との繋がりだけではなくて、例えば仏であったりもするのだろうと思う。
同行二人。遍路をしていた頃、四国の人たちに助けてもらった。四国では普通に接待という「心」がある。そういう心があるから1200キロもの道を歩き通せるのだろうと思う。「なんとかやっていける」のだろうと思う。
「接待」という意味では、例えば歌やスポーツなんてものは有効だと思ったりもする。お金や物ではなくても「頑張ってください」という祈りは大切だと思う。それが何になるんだ、という人もいるのだけれど、そういったムーブメントに心を揺さぶられる人もいるのだろうし。例えば「We Are The World」を聞いてアフリカへ行った人たちのように…。
不要なものなどない、と思うのだ。
休日も終わる。そのテレビドラマを酒の飲みながら見て、そして眠ってしまった。21時前に起きて、これを書いている。
花見
豊川の畔で花見をした。

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