神立ち

雪だ。
これほど積もるのは、確か4年ぶり。ちょうどボクは田原にいて、ちょうどその雪の日が不動産屋で今住んでいるアパートの契約日だった。今日のような朝だった。そして今日のように積もっていった。柱あたりから渥美線小池駅まで歩いた。靴が濡れ、足が痺れるほど冷たくなっていた。そんな感じを思い出している。
雪になれていない地方では、これぐらいの雪にでも混乱してしまう。朝のバッテリー上がりやスリップ事故、それに伴う交通渋滞。クルマ社会でクルマを使えなくなることほど不便なことはない。人々はタクシーに群がる。そのタクシーとて台数に限りがある。それに運転手も人の子、お金よりは命のほうが大事だ。事故を起こしては元も子もない。こんな日には休みたいし早く帰りたい。公共性があるといっても慈善事業ではない。ちょっとぶつけてしまえばその日の売上なんて飛んでしまう。
神立ち。
タクシー乗り場には客が列をつくる。
その列を見ながら回送ボタンを押す。少しサディスティックな気持ちになる。駅前の信号を抜けて城海津の交差点の向こう老婆が手を上げた。ボクは少し戸惑ったし、少し考えた。そして少し自分の運みたいなものを呪った。
信号が変わり発進した。まだボクは迷っていた。迷ったけれど停車した。そしてドアを開けた。
「どこまでですか」
「ちかくで悪いけれど、下地まで。悪いね。」
「ああ、良いんですよ。下地までですね」
ワンメーター、よくて1000円ほどの距離だった。「コロかあ」と心の中でつぶやいた。
「悪いね。こんな日だからね。すみません、すみません」
老婆は手を合わせてボクを拝んでいた。そして「悪いね。すみません、すみません」とまた言った。
「いや、良いんですよ。こんな日だからね。歩くと危ないしね」
とボクは言った。
「その先を曲がったところで」と言ったところで停まった。そして料金の760円をもらってからドアを開けた。
「ありがとうございました」とボクは行った。そしてドアを閉めた。老婆が手を合わせてボクの車を拝んでいる姿がバックミラーに見えた。
なにか悲しい気持ちになった。その短い距離を恐縮しながら乗っている老婆のことを考えていた。老婆にとってタクシーは雪の日ではなくても唯一の足なのだろうし、タクシーがなかったら買い物にも医者にも行けない。全てなのだろう。
老婆にとってありがたい距離をボクたちは迷惑に思ったりする。でも実は、たかだかそれぐらいの距離を運転したぐらいで760円も頂くことこそ「すみません」という行為なのだと思う。そこからそこまで、例えば歩いて10分の距離でも680円は頂く。とにかく乗れば680円を頂く。
老人が手を合わせて「すみません、すみません」と拝まなければ買い物も行けないこの国を嘆いているのではない。ボクたちの本分みたいなものをボクたちが忘れてしまっているのではないかということが悲しいだけなのだ。
例えば老人との関係がボランティアとか介護というものに分別されて、例えば人の本分としての関係が喪失してしまっている、というような…。例えば大がかりな寄付には参加するけれど、貧しい隣人は見殺しにしてしまうような。
……。
ボクはまた駅に戻った。神立ちは続いていた。
ドアを開く。「どちらまででしょうか」と言う。
「近くて悪いんだけれど」
「大丈夫ですよ」とボクは言った。
少し、社会と関係が持てたように感じた。そして少し生きがいみたいなものが見えたように思った。
豊橋駅、神立ち
豊橋駅、神立ち

2件のコメント

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    駅前から下地って距離は短いですが、雪が積もった日にとよばしを渡ることを考えたらおばあちゃんにはキツいでしょうね。 
    予算的にバス路線を増やすのも無理でしょうし、おばあちゃんには住みづらいもんですね。

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    苦しんでいる自国民を差し置いて、外国との関係を優先する政府。
    硬直化した社会システムの枠内で自己保身を図り、
    その枠からこぼれ落ちた人を、
    自分はそうならなくて良かったという安堵感と、
    自分もいつかそうなるのではないか、という恐怖感と、
    こぼれ落ちたのは自己責任・自業自得だという侮蔑感がないまぜになった感情で、
    見下す人たち。
    だけど、ただ流行に乗ってみたい、という寄付ブームは大歓迎。
    勤務先の介護施設にも届かないかな。
    児童福祉施設ばかりじゃなく、
    「薄給に耐えながら激務を忍んでいる、介護職員の方々へ」
    という現金の寄付が来ないかなぁ。

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