「“声かけ”で自殺を防げ~樹海からの報告~」を見たよ

昨夜は久しぶりにテントに寝た。部屋の中で。最近のコトバで言うと「うちテント」とか「うちキャンプ」なんてことなんだろうね。懐かしいにおいがした。2年ぶりだった。マットを敷いて、シュラフに包まって寝た。目覚めたら遅い朝だった。宝くじをバラで10枚買った。大安吉日だったからではなくて、なんとなく近くの売り場に行った。テントの目覚めはキレが良い。「動かなければ」という切羽がある。
荷物の少ないボクの部屋なんだけれど、首吊り用のロープがある。キチンと壁に掛けられて、その日を待っている。使われることがあるかどうかはキチンと準備している本人でさえ分からないのだけれど、それはそこにキチンとある。性格なのだろうか、そういうものがあると落ち着く。
例えば死を考えた時に、例えばホームセンターが閉まっている夜中だったりすると、きっとあきらめてしまうと思う。練炭を買って、目張りをして…そんな段取りをしている間に、自殺するなんてことがバカらしくなると思う。そんな力があるのなら、きっと生きると思う。だから、キチンとその日のために準備をしている。そういう性格なのだからしかたない。
2人の知人の自殺を経験した。玉ちゃんとトモ兄。今のボクよりは若く逝ってしまった。そして今のボクよりも生きる力を持って突然に逝ってしまった。
自殺した人たちのことなんかを思い出している日曜日の午後なんだ
どうなんだろう、人は死んだほうが幸せだということはないだろうか?生きる苦しみから解放されるほうが良いことだってあるのではないのだろうか?生きていれば良いことがある、なんて言うけれど、その生きている今に良いことがないのに。生きている将来がもっと不幸かもしれないのに。
死んだほうが良いということだって、きっとある。そう思う。生きていれば良いことが本当にあるのですか?ただただ泣く腹の虫のために、餌を得る作業を繰り返しているような日々が「良いこと」なのだろうか、と、思う。人はその虫のために生きているのだろうか?
疲れたら、そしてもう面倒くさくなったら、死のうと思う気持ちが強くなったら、壁に掛けられているロープに首を入れて、さっさと死んでしまう。オートマティックなのだ。ボクはそれで良いと思う。後片付けは大変かもしれない。そのための費用はキチンと置いてゆく。粗大ごみの日に、腐敗したボクの身体を捨ててもらってもいいのだけれど…。
自殺を防いだところでどうなるのだろうと思う。死んだほうが良いことだってあると思うのだけれど…。
豊橋市向山東公園
向山東公園にて

7件のコメント

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    石老山さん、こんにちは。
    給料の多寡よりも、幸せの量のほうが重要なのかもしれませんね。
    前よりも時間が出来たのだろうし。その時間こそが幸せなのだろうし、なんて思っています。
    ボクの場合は、家族も身内もいないので、時間はあっても何か物足りなさはいつも感じます。助け合うということもないということは身軽ではあるのですが、それはそれで切ないときもありますが。
    自分ひとりが生きるだけなら、という気持ちがいつもつきまとっています。

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    はじめまして、やすといいます。
    いつも楽しく読ませてもらっています。
    私もブログを書いているので、もしよかったら覗いてみてください。

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    人生とは何かと最近考え始めたところなるほどと感心するこのHPにたどりつき投稿させていただきます。
    わたしは公務員を50過ぎてやめ今は民間で働いています。やめた理由は四面楚歌と体力が
    弱かったためこのままでは死ぬと脳裏をよぎったからです。仲間は4-5人若死にしそれも
    ひとつ理由でした。今給料は当時の1/4以下
    です。貯蓄を取り崩す毎日で年金まで大丈夫
    だろうかと心配する日々をおくっています。
    そのなかで生活を工面する女房には迷惑をかけたと懺悔する心境になりました。
    逃げたことは男として恥ずべきことかもしれませんが、今のような金はなくとも家族助け
    合う人生のほうがよほど価値があるなと自分を慰めたりします。
    お金も大切ですが、少なくても生活をきりつめなんとかする姿勢のほうがあとあといいような
    きがしています。

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    >gokrakさんへ
    そうですね。
    仕事とか人間関係とかから解放されて、旅をしたいとか、歩いてみたいとか思っています。
    将来に絶望する、というよりも、現状に倦んでいる、という感じです。
    >牟呂にいた人さんへ
    生きていてもいいし、死んでもいいし、という選択の自由もある幸せ、ということなのかもしれないなあ、なんて思っています。
    死ねないほどの貧困というのもありますし。
    正規社員を捨てて、何かを拾えれば、それはそれで良いのでしょうね。今はその目的があるのだし。
    >色即是空さんへ
    相対的なことからは年齢と共に解放されるのだろうと思います。諦観するというか。そこからが問題で、存在ということを考え始めるとややこしくなると思います。
    過去からも未来からも解放されたとしても、それはまだ余裕があるという前提での話で、例えばホームレスになったとして、「公衆トイレで頭を洗う幸せ」と言えれば良いですけれど。
    何もかも捨てて、ボクのほとんどのものを捨てていますが、だからこそ「人生とはなんなんだ」と思い悩むこともあるし、最後に大事にしている命を捨てることも欲を捨てることも同じじゃないかと思ったりするのです。

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    はじまして。
    いつもブログ拝見させていただいております。
    最近内容が暗いですね。
    自殺を強く意識されているのであれば、是非精神内科を受診してください。
    うつ病でなければ良いですが。
    人は相対的にしか物事を感じることができないのですね。
    他人が幸せそうに見えるとき、自分が不幸に感じたりすることがあります。
    でも、他人の幸せは自分には関係ないことですし、なんの得にも損になりません。
    お金が沢山あっても、大手の企業の正社員であっても、様々な理由、事情で不幸を感じている人は大勢いるでしょう。
    その反対に、お金がなく、家族もなく、仕事も不安定で、それでもそれを不幸とも思わず淡々と生きている人間もいるでしょう。
    幸福の価値は他人に計ってもらうことはできませんから、自分自身で不幸感を払拭するしかありませんね。
    私はそれなりに大きな企業の正社員でしたが、その会社をだいぶ前に辞めました。
    このご時世でなかなか再就職は難しく、他人から見れば、不幸な人間に見えるかもしれません。しかし、自分自身は今の自由な時間を楽しんでいます。
    月日はあっと言う間に流れ、お金はどんどん減っていきますが、無駄使いしない程度に、そこそこ人生を楽しんでいます。
    人はいつ何どき死ぬかわからないですから。
    病気になったり、事故にあったり、自分の意思ではどうにもならないことで一生が終わるものです。
    お金は最低限なくては困りますが、どんなにお金持ちでもあの世に持って行くことはできないことを思えば、沢山あってもしようがないと思っています。
    腹が減ったら飯を食う。それが仮にインスタントラーメンであっても、美味いと感じれば幸せ。
    寝る前に風呂に入る。三、四十円の入浴剤を入れてゆっくりと湯船に浸かる幸せ。
    結局私は過ぎ去った過去自分と今の自分を比較することを止め、今日一日を何とか幸せに感じて生きようとしてます。
    どうにもならない過去、どうなるか分からない明日を思い悩むよりも、今、この瞬間を大切にしたいと思っています。

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    僕も自殺を防ぐのはどうかと思います。僕は子供の頃から勉強する癖がついていますが、そうでなければアラフォーで正規雇用でもないので、何の希望もなく絶望に支配され自殺してるかもしれない状況にあります。 
    弁護士ですら食えない状況で、たとえ受かってもどうにもならないというのは今は考えないようにしています。
    社員として働いていた頃でも、相思相愛だった人が収入が倍の男のほうを選んだ時は絶望感しかなかったですし。
    どんなに辛くても社員の地位は捨ててはいけなかったのかな。

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    写真と文章が印象的なので時々拝読させていただいてます。ロープがある、というところでびっくりしたのですが、私の場合は死ぬのは最後の楽しみにしようかなと思っています。フェードアウトしながらでもいいですし、自分の意思ででもいいかなと思っています。でも、時々は、何もいいことが無くて生きる意味も目的も無いのですが、空が青くて風が気持ちよければその程度でぼーっと生き延びていてもいいのかなと思ったりもします。

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