憂鬱な朝
冬だ、冬だ、何処もかも冬だ
見わたすかぎり冬だ
再び僕に会ひに来た硬骨な冬
冬よ、冬よ
躍れ、叫べ、僕の手を握れ
大きな公孫樹の木を丸坊主にした冬
きらきらと星の頭を削り出した冬
唐突に高村光太郎の詩が背後のテレビから流れだす。
押入れとかテントとか狭い空間で身を潜めるように静かに呼吸することが好きなボクには、そしてうまく他人とコミュニケーション出来ないボクには、同じく狭い空間でひとり誰とも話さずにいられるタクシードライバーという仕事は向いているように思う。
それでも宝くじが当たったら、サッサと辞表を出して、またあのような旅に出てみたい。歩いてみたい。そう考えると、その向いている仕事も、実はそれほどの価値なのかもしれないと思ったら、少し哀しくなった。
ボクとボクとの違い、その擦過傷の痛みに涙することがある。どうもこの何年かは、それは期間工として働くことになった頃からなんだけれど、将来に対して失望し絶望し、あるいはそれが恐怖になったり、そんな感覚の中で生きている。要するに何も楽しいことがないのだ。楽しいことがないというよりも、それよりもなによりも、何もしないのだ。休日はほとんど引き篭っている。引き篭っていて、何をするわけでもなく、ただ無為な時間を過している。部屋のテレビはほとんど24時間点けっ放しで、その音とか光が空間を埋めている。それでやっとバランスを保っている。
生きているのか死んでいるのか分からないような休日なのだ。
そのテレビから唐突に「冬の詩」が流れている。
徹夜明けの朝。確かに外は冬だ。ところがボクといったら、そういった季節やら世間やらと絶縁するように遮光カーテンをキッチリ閉めて、そして蛍光灯を点けている。きっと真夜中に眠れなくて、相変わらずテレビと蛍光灯の音と光でバランスを保っている空間の中で焦燥感やら恐怖感なんてものが少しずつボクの身体を押し潰すのだろう。それはいつものことではあるのだけれど。
冬だ、冬だ
また冬だ。相変わらずの冬だ。去年と同じ冬だ。いつもと同じ冬だ。どうしようもないくらい同じ冬だ。
密封された部屋にはそしてまた夜がきて、生きている意味なんてことを考え始める。いや、考え始めるというか、無意味さに呆然としてしまうだけなのだけれど。
牟呂にいた人さん、こんにちは。
ああ、そうですね。テレビがあるとついつい見てしまって…。
テレビのないところに住んでいたことがありますが、ラジオを聴いていて、時間はうまく使えませんでした。
ありがとうございます。
私は東京で社員で働いていたところから転げ落ちましたが、吹っ切ってテレビを捨て家では必死に難関資格の勉強をしています。
頑張りんよ。
MUKUさん、こんにちは。
おひさしぶりかな。
そうですね。雨の日は好きです。子供の時は特に好きでした。日曜日でも家にこもっていられましたし。
ライン作業を黙々とするってのも、落ち着くかなあ…。
空間を埋めるっていう事なんですね。休日の晴れの日が脅迫的で雨の日が落ち着くのは、雨と雨音が空間を埋めてくれるからなんだって理解できました。