春霖

貧しかったという感覚はなかったのだけれど、今思うとボクの子どもの頃というのは、そうだったのだろう。相対的なものだから、大人になると、というか育った地域を離れると、貧しかったということを実感する。例えば、週刊ジャンプなんて漫画雑誌を子供の頃からの習慣でいまだに読んでいる同じぐらいの年齢の人がいたり、あるいは昔見たテレビの話なんかをすると微妙になにか違和感を感じたりする。地域差、都会と田舎だと10年とは言わないけれど5年ぐらいの発展差があったように感じる。
実家の裏には小屋があった。ボクが物心ついてから小学校にあがるまで、そこには叔父さん夫婦と3人の子ども(いとこだけれど)が住んでいた。六畳と四畳半ぐらいの間取りで、風呂も炊事場施設もなくて、ただ電気が母屋である実家から引っ張られているだけの簡素な家だった。
風呂も食事も母屋に来ていたし、実家の細々したことはいつも叔父さんがやっていた。それは叔父が自分の家を持ってその小屋を出て行った後も続いて、日に一度は顔を出していたし、父には出来ないこと、例えば大工仕事なんてのを誰に言われることなくやっていた。
小屋にはテレビなんてものはなくて、ラジオから歌謡曲が、そしてプロ野球の実況中継が流れていたように憶えている。トタン屋根を打つ雨音に混じってラジオの音がボクのところにも聞こえてきていた。きっと雨の日にはボリュームを上げていたのだろう。
愚直という言葉がぴったりの人だった。容姿は父親に似ていたのだけれど、そんな性格は、たぶん弟として育てた親の望み通りになったのだろう。父に逆らうことはなかったし、母に対しても、そしてボクたち兄弟に対しても、いつも丁寧に接してくれた。
貧しかったのだけれど、その貧しさに媚びてはなかったし、それを恨んでもいなかった。周りがすべてそうだった、ということでもなくて、あの頃の家族と言う共同体の中での役割が身に染みていたのだろうし、それが叔父さんの人生だったのだろうし、あの頃の人たちの生き方だったのだろう。
今考えると、それはかなり不条理な部分を含んでいるように思う。弟として生まれたがばかりにそうした生き方をしなければならなかった時代。
その叔父さんが亡くなった。
父と同じ病気だった。そういった負の遺産は平等に受け継いだ。それもまたなにか不条理なように思う。それでも、あの頃は幸せだったのかもしれない。ボクもそう感じていた。それは貧しかったのだろうけれど、みんなが寄り添って生きていたからなのだろう。貧しい食事だったとしても、十数人分の温もりがそこにあったのだろうと思う。少年ジャンプはなかったのだけれど、そんなものよりも楽しことがいっぱいあったのだろうと思う。そしてラジオから聞こえる声にワクワクしていたのだろう。
外は雨。ああ、そうそう、庭の、あの実家の庭の躑躅も咲く頃だろうね。
新城市医王寺

4件のコメント

  • blank

    名古屋の短歌好きさん、どうも。
    体調を崩していて、パソコンに向かうのも苦痛でした…。
    わたしなんぞは、西村さんほどの経験もなければ、才能もないので…。
    そういってもらえるのはありがたいですけれど…。
    まあ、人の書いたものを読むのが精いっぱいのようです。

  • blank

    少し古い話題ですが、一昨年の芥川賞を受賞した西村賢太さんの「苦役列車」はもう読まれましたか?
    日雇いの港湾労働者の日常と苦悩を描いたし小説?で、石原新太郎氏が絶賛しています
    西村さんは小説を書き、出版社に持ち込んで、最初は野間宏文学賞を取り、それから
    肉体労働から物書きの世界にシフトしていったようです
    笠山さんも実体験をもとにした小説を書きませんか?
    このブログを読むにつけ、笠山さんなら今の時代に受け入れられる小説が生まれると思うんですが?

  • blank

    名古屋の短歌好きさん、こんにちは。
    そうですね、そんなところです。私の姉は集団就職をしました。都会だとそういうことはなかったでしょうけれど…。
    豊橋や岡崎の紡績会社にも九州から集団就職で来ていたようです。定時制の高校が多いのはそういった理由からなのかもしれませんね。
    市立豊橋高校なんて公立の定時制(だけの)高校があったりしますしね。
    そうですね、貧しさを感じなかったですね。後になって「ああ、貧しかったんだなあ」なんて。
    集団就職なんてのも普通だと思っていましたし…。貧しくても幸せでしたけれど…。

  • blank

    笠山さんは1960年ー1970年生まれでしょうか
    私の幼年時代と重なります
    まだ戦争が終わって20年ぐらいの頃でしたか、名古屋市内にもまだ戦争の爪痕が残っていました
    空襲で家を失って資産すべて失ったものの、今の地震被害者の公共の仮設住宅みたいなものもなく、バラックみたいな家を自分たちで作って住んでいる人たちがまだ近所にいました。
    その時代から比べると今は貧しいといっても比較にならないぐらいに豊かだと思います
    ただ、当時と違うのは当時は国民全部が貧しかったので「貧しい」とは感じなかった
    今は格差がはっきりしているので相対的に貧しさを感じるのだと思います、

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA