Mt.Fuji becomes a world heritage site.

富士山をはじめて見たのは、もうずいぶんと大人になってからだったと思う。それまで見える場所に行ったことがあったとしても、寝台車や夜行バスの中だったりしたので、そしてちょうど早朝とか深夜だったりして、見ることが出来なかった。いつはじめて見たのかということをハッキリと覚えていないんだ。
富士山にはじめて登ったのは去年、7月のはじめ、まだ雪が厚く残る頃だった。その前年の11月だか12月に弓張山脈を歩いた時に二川中継所あたりから見て、登ってみたいなあ、なんて思ったのがきっかけだった。
「そこに山があるから」なんてたったそれだけの理由で山に登る人はいない、と思う。そこに海があるから泳ぐなんて人がいないぐらいに、いないと思う。そんな理由だけで登ったり泳いだりする人ってのはとても危険だと思う。そこに女性がいたら犯してしまう、なんて単純に動物的に行動してしまうかもしれない。
富士山の場合は、どうなんだろう、やっぱり「日本一高いところ」という理由が多いかもしれないと思う。霊験あらたかだから、なんてことも理由としては多いのだろうし、富士講なんてものもあって、とにかく一生に一度はなんて人生をかけての山だったのだろうし…。
富士山に登ってみて、どうなんだろう、そんなに感動はしなかったし、あのガレ場と人の多さには正直面倒くさくなった。雪が残っていて、それもかなり残って、そのことが単調な景色に変化を与えていた、というか、風景を異形なものに変えていたのだけれど、ボクにシャッターを押させるというほどドラマティックではなかった。結果的に十数枚しか撮らなかった。
神聖な、とは言っても、あの人ごみは、縁日の賑わいのようでもあったし、ブルドーザーやパワーショベルなんて重機が動いている山の風景は、建設現場を思い起こさせるものだった。
それでも、下山して麓や高速道路から見上げた時には、その美しい姿に感動したし、霊験なんてことを感じさせた。三保の松原が富士山の一部として世界文化遺産に登録されたということはそういうところにあるのだろうと思う。日本人にとっての富士山というのは遠くにそびえたつ、あの神々しくもある姿なのだろうと思う。
ボクが「いつはじめて見たのか」ということをハッキリ覚えていない理由ってのは、子どもの頃からいつも見ていたからなんだろうと思う。テレビや雑誌、教科書なんてものを通じていつも見ていたから、実際に見た日付なんてものが分からないのだろうと思う。世界遺産なんてものにならなくても、ボクたちの心の中にはキチンと残っていて、原風景として遺伝子の中に組込まれているのだろうと思う。
今年も登りたいと思うのだけれど、きっと例年以上に多いだろうから、三保の松原からゆっくりと眺めるかなあ、なんて思っているんだけれど…。てか、最近は山どころか街にも出ないんだけれど。
富士山2012年7月
富士にはパワーショベルが良く似合う…。

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