体罰問題で考えたこと

昨日の続き…
教育現場でのスポーツというのは「勝つ」ということが目的ではなくて、「負ける」ことを知ることが目的だと、豊川工業陸上部監督の体罰問題の時に考えた。勝つことが正しいという命題がそもそも間違いであって、そのために体罰が生じる。
勝つことは正しいかもしれないが、ほとんどの場合は勝てない。99%の人が負けるのがスポーツである。どんなに早く走ってもウサイン・ボルトには勝てない。どれほど努力したところで、どれほど殴って練習を強制させたところで、ボルトには勝てないのだ。福島千里がいくら早いと言っても、オリンピックでは決勝にも残れない「敗者」なのだ。
結局、この世の中には勝者なんてのは1%しかいない。スポーツに限らずすべてにおいてそれは言える。1%の勝者と99%の敗者によって世界は構成されている。人はいつかどこかで負ける時が来る。それを知るのがスポーツなのだと思う。
どれほど努力したところで、どれほど訓練したところで負ける時が来る。その時にどう振る舞うか、どう対処するかということを学習するのが教育現場におけるスポーツのあり方なのだと思う。負けを知っていればこそ、挫折しても立ち直ることが出来る。争いが無駄なことだと分かる。抗うことが無意味だと考える。自分自身の分が分かる。何よりも敗者の痛みが分かる。
敗者の痛み、人の痛みが分かることが愛なのだと思う。そのためにボクたちは負けることを集団の中で学習する。集団の必要性というのもそこにある。誰かに勝って、そして誰かに負ける。全敗の人もいるだろう。負ける人がいるから勝つ人がいる、ということを知ることが出来る。負けることは勝つ人を祝福することなのだ。99%の人は祝福する立場になる。それが平和ってものなのかもしれないと、思う。
もちろん勝つための努力は必要なのだ。そして負けることが大切なのだけれど。
でもボクのまわりには「努力しない大人たちも多い」そんな人たちはもう最初から「負け」ているのかもしれないけれど、それでもそんな人たちはけっこう平和に生きていたりする。その話は次にということで、体罰問題で考えたこと、そして昨日の「人が自分の置かれた人生を納得して生きるということほど、素晴らしい選択はない、と私はいつも思う。」とは曽野綾子さんの言葉に導かれて考えたこと、なんだけれど、まとまらないままに寝るか。
豊川工業高校の体罰事件で考えたこと
豊橋駅 タクシープール
豊橋駅タクシープール

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