昼寝するおバカ

曽野綾子さんにもう少し若い時期に出会っていればもしかしてクリスチャンになっていたかもしれない。クリスチャンになっていたかもしれない、そう思うのだけれど、ブッディストであるボクたちはその仏典の中に人生における道標をほとんど見出すことなく、そしてほとんど疎外された場所で生活をしていて、「あの和尚に会っていれば敬虔なブッディストになっていたかもしれない」なんて思うこともない。
多くの若者は辛苦の中にあって、それを解決するあるいは治療する言葉を求めている。残念ながら今のこの国の仏教界にその力はない。何百編般若心経を唱えたところで何も解決しない。四国を遍路したところで人生が変わることはない。ボクたちは肉体的にも精神的にも孤立してしまっている。グルもいなければサティアンもない。それどころか相談する上司も同僚もいない。非正規労働者と高齢者の増加、それはそのまま孤立化する人々の増加を意味する。生活保護受給者とホームレスも増え続ける。自殺者の減少は死ぬ気力さえもなくしてしまった人たちが増えただけのこと。生きるも死ぬも力はいる。力のいらない生き方を選ぶ人が増えただけのこと。
必要なのは規制することでもなく緩和することでもない。たとえば生活保護受給者に職業訓練を、なんてこともそれほど意味はない。失業保険受給者の職業訓練が受給資格延長だけの目的になっているのと同じこと。必要なのは生きる力を与える何かなのだ。その何かはやはり言葉なのだ。「納税義務」なんて法律用語ではなくて、「汝隣人を愛しなさい」という言葉。
「人が自分の置かれた人生を納得して生きるということほど、素晴らしい選択はない、と私はいつも思う。」とは曽野綾子さんの「昼寝するお化け」にあった言葉。なるほどそれは確かに素晴らしい、とボクも思う。納得できないから争いが起き妬みや嫉み僻みが起きる。諦めることはできてもなかなか納得はできない。そこでボクたちは格差なんてものを感じる。運不運なんてことを持ち出して諦めることにする。
ではどうしたら納得できるのだろうか。
なんて考えていたら眠ってしまった。「昼寝するお化け」ではなくて「昼寝するおバカ」になってしまったのだ。「どうしたら納得できるのだろうか」それは次回に書くことにする。と言っても答えが出ているわけではないのだけれど、きっとそれはスポーツにあったりする、と思う。
豊橋市役所と満月
豊橋市役所と満月

2件のコメント

  • blank

    世の中にはいろいろな人がいて、そして回っているのでしょうね。コミュニケーション能力がないと言ってもしゃべれるのだろうし、行動が遅くても動けるのだろうし。
    良い人に出会えるといいですね。それが人生で最も重要なことなのかもしれないですね。
    運転手は運転の上手下手よりもいかに正確に安全にということのほうが大切かなあ。あとはナビを使うことができれば。近くだったらもう少し具体的に話せるのですが、いろいろな人がいるのがこの業界です。

  • blank

    「自分の置かれた人生を納得して生きるということほど、素晴らしい選択はない」について、なかなか納得できないし僕自身諦めています。昔、身の程知らずは畜生以下とある方からいわれたことがあります。その時は、何故そんなことを言われないといけないのかと思いました。次の仕事、その後職業訓練を受けていかに自分が駄目なやつかと思い知りました。自分の身の程を知ることが大事だということがよくわかりました。僕も仏教について勉強しましたが、実際は、綺麗ごとだけではない現実がありますね。僕自身努力してきたつもりでも他人からみたら全然駄目だと言われてきました。コミュニケーション能力がなく社会適応力がないところもありますし、仕事は遅いです。他人から見るとわざとゆっくりしている評価を受けます。上司、同僚からは嫌われてきました。自分の努力不足ですし自業自得ですけど、なかなか現実に納得はできないです。それが煩悩ですね。今は諦めの境地です。そこからなかなか悟りを開けないです。山に立てこもりたい気分になって来ます。協調性のない僕は、無人島で自給自足の生活が向いているのかわかりません。何の行動力もないのが情けないです。孤独なつまらないものです。周りの人を見ると自分がみじめになって来ますが人は人と割り切らないといけないですね。納得は、なかなかできないですけど、現実を受け入れないと。お寺、神社にすがりたい気持ちになります。仏に信心すれば救われるかわかりませんが。現実は、厳しいです。自分の身の程に応じた行き方を探さないと行けないです。車の運転はへたくそですが、タクシー運転手になれますか?なかなか何事にも自信がもてないです。なかなか前に進めないです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA