宝林寺の金鳴石
仕事がなければ雨の日は嫌いではない。一日中窓の外、雨の街を見ていることも平気でできる。洗濯物が乾かないのは困るけれど、仕事がなければ人に逢うこともないので着替えなくても平気だろうし。
6月にしみじみ
6月、子どもの頃の6月は、まだ寒くて、片づけていないコタツに入っていた記憶がある。あいかわらずボクたちは鍋の中に想い出を入れてコトコトと煮込んで煮込んで…そんな濃縮された時間を過ごしている。そうそう、ちょうど自然食研の「しじみ習慣」のCM、あの濃縮エキスみたいに…、みたいにだけれど、しじみほど健康的ではないのだけれど。
豊橋の夏は、とことん暑いってほどではないのだけれど、よくあるコンクリートとアスファルトで色付けされた市街地とか住宅街ってのは、都会熱というようなものがこもっていて普通に暑い。6月に寒いなんてことは全くなくて、ボクの生活といったら5月からエアコンのお世話になっていて、6月にもなると稼働率が一気に上がる。
それに睡眠不足と睡眠過多が交互に来るもんだから、みょうな感じで一日というか時間が過ぎてゆく。今日も鎮痛剤のお世話になった。鎮痛剤が手放せない、薬物依存症なのだ。
そうだ、浜松へ行こう
そんな感じなので休日はぼ~っとしていることが多い。家に籠っているとしても、何か、例えば本を読んだり、映画を観たりもしない。ひたすらぼ~っとしている。なんという贅沢。と本人は、そう思わなければ喪失感なんてものと対峙しなければならないので、そう思うようにしている。
そんな休日なんだけれど、乾坤一擲、なんて大げさなことでもないけれど、久しぶりに出かけてみた。特に、宝林寺に行きたいとか、行く運命だったなんてこともなくて、行った。
というか、少し前にお客さんから「宝林寺、という寺に、金鳴石ってのがあって、あれを鳴らすと幸せになるらしいよ」なんてことを聞いていたもんだから、その「シアワセ」って言葉がみょうに頭の後ろ側にコビリ付いてしまっていて、本人(ボクだけれど)それ(そのコビリ付き)が原因で頭痛がして、みょうな幻覚(きっと薬物の影響、って、鎮痛剤だけれど)を見ているのではないかという妄想をするようになっては、やっぱり運命というか強迫観念というか、そんな人智知れぬ、というか、呪いみたいなものから解かれたい一心で、行った。(ということにしてください)
宝林寺の金鳴石
き~ん、き~ん。
確かに金鳴石は金の音がした。
その音を聞いたボクはと言えば「金ほしい~、200両欲しい~」と、落語「夢金」が浮かんできた。そして今度は頭の後ろではなくて、耳の後ろ側で志ん朝師匠の「夢金」がコビリ付いてしまった。そして宝林寺の境内で、iPhoneに入っていた志ん朝師匠の「夢金」を聞いた。「ああ、やっぱり志ん朝師匠の夢金は良い」と、なんとなくシアワセになった。
なったのだけれど、山門を出る時に「ん?」と思った。結局「夢金」かよ、とボクは思った。思ったのだけれど、コビリ付いた者共を振り落とすことができたのだから「ま、いいか」と考えた。
そうしてシアワセな気分になれたのだから……、宝林寺、の金鳴石、恐るべし。
宝林寺にて、金鳴石が鳴る

