名古屋無差別殺人未遂事件について考えたこと

報道では「誰でもよかった」ことについての見出しが多いのだけれど、ふつうこんな事件ってのは「誰でも」いいんじゃないのか?無差別殺人事件というのは、今回だけが特異なケースではなくて集団がある限りかならず起こり得る犯罪だろう。文明がそれを可能にしているということもあるし、その量(殺傷者数)を増大させているということもあるし、「驚くべき」事件でもないし、社会と文明の高度化がその頻度を上げているので、「ふ~ん、またか」なんてぐらいにしか感じないボクは異常なんだろうか?
加藤智大とか引寺利明なんて、まだ記憶に新しくて、ネットなんかでは「ネ申」なんて言われたりするんだから、今回の大野木亮太というのもそいつらの手口をまねして「ネ申に!」なんて思ったとしても不思議ではないと思うんだが。「誰でもよかった」、個人的怨恨でもなければテロでもないのだろうから、結局は将来に夢も希望ももてない若者が自暴自棄になったら、これぐらいのことは平気でやるということ。まあ、何度も書いているけれど、犯罪は狂暴化する傾向にある。
だって、社会からも家族からも孤立してしまっているんだから、何が、そして誰が彼を止められる?犯罪の抑止力ってのも集団なんだし、理性なんてのも孤独の前では無力だし。
「人の痛みを」なんて教育の大切さを説く人も多いけれど、本人が重傷なんだから他人の痛みどころではない。そもそも「人」ってのが誰だか分からないだから。それほど孤立しても生きられる世の中になってしまったってこと。
マツダ車のエンブレムがテレビ写った時には「名古屋でマツダかあ」なんてやっぱり加藤と引寺を連想してしまって、まあ、犯人にはそういう意図はなかったのだろうけれど、クルマ社会の恐怖なんてこと(凶器としてのクルマと経済の象徴としてのクルマ産業)を含めて、老人と若者が孤立化する国家になってしまったことについてなにか手を打たないと、家庭の問題とか病気なんてことで片づけてはダメだと思うんだけれど。
オリンピックの輝き、そしておのれの陰、絶望するかもしれないね。若者にとって夢も希望もない国なんだしさ。大逆転なんてのは普通は無理なんだろうし…。
それとこの手の事件を報道する意味ってのもあるのかなあ、なんて思ったりもしてる。逆に煽ることにもなるしね。報道のしかたのほうが「異常」だと思うし。まあ、「かわいそう」なんて視聴者よりも「うひゃ~」なんて人が多いのだろうし、それは火事見物みたいなものかもしれないと、不謹慎かもしれないけれど思ってる。
さてと寝るか。
名古屋無差別殺人事件
安全な場所なんてほとんどないってことだ。

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