砥鹿神社で初詣で(2)

今年は立春前に行けてよかった…。
砥鹿神社で初詣(で)
砥鹿神社で、という特別な理由もないんだけれど、場所の持つ力というか方角というか、どうも行ってしまう。「とりあえず砥鹿神社」(ばちあたりか)なんて「とりビー」みたいなことかもしれないなあ…。無事であったことへのお礼参りもしなければ、なんてことも思ったりするので、やっぱり砥鹿神社で初詣で、になってしまう。太郎もセットだけれど。
無事、何もないことが幸せなんだろうね、きっと。変化なんてことは面倒くさいもんだ。このままボンヤリと人生からリタイヤしたいと思うのだけれど、まだまだそれまで世間と関わり合わなきゃいけないと思うと、少しウンザリする。野心なんてものとはもうとっくに縁切りをしたと思っていたとしても、集団にいるとなんだかんだといろいろなことに巻き込まれる。人が人をつくるんだね。
ゆとり世代だけではなくて、非正規社員とか、まあボクたちタクシー業界もだけれど、野心どころか、草食化、いやもう仙人化していて、持家や結婚、それどころか車や外食なんてものまで諦めているというよりは、不必要なものだと思っている。消費増税になったところで、消費しなければいいんだから、そんなもの関係ないって人も多い。
実は非正規社員の多くは現状に満足していて、声を上げることもなく、正規社員になりたいと転職するという選択も怖くてできないのだ。低賃金で使われていることへ何の不満も疑問もないのだから、いよいよ企業にとっては都合の良い人が多くなっているということなのだ。企業というか差別集団となりつつある正規社員の利益のために必要不可欠な集団となっている。だからその代表である労働組合なんてものさえも、同じ労働者であるはずの非正規社員のためには動かない。
また、その被差別集団が抗議をすることもなく、国家や差別している集団に対して従順になっている/いくということになんの違和感もなくなっている、というか差別されることが快感になっているようにも思えたりもする。
ネットなんてもので企業に抗議することはできたとしても、それはただのガス抜きみたいなもので、結局はなにも起きはしない。真の革命家が登場するまでには、新たな水平社宣言で起ちあがるまでには、まだ時を必要とするのか、あるいはこのまま仙人化して格差や差別を受入れるのだろうか。政治も組合も誰も助けてはくれない。好況になり企業の業績が良くなったとしても、企業はそれを社会に還元するどころか従業員にも還元できないのだから、正義はどこへ行った、なんて思ったとしても、国益、企業益なんてものの前にはそんなものはすっ飛んでしまうのだろう。
キチンと雇用問題を解決してくれるヒーローは現れないのかと、なんとか細胞も大切だけれど、そういった研究のほうがもっと重要事なのになあ、雇用政策でノーベル賞を取れよ、なんて、あのあべちゃんの写真を見ながら、なんてボンヤリと考えている。
砥鹿神社で初詣で(2)
今年も大吉。
「あんまり誰か崇拝したら、ほんとの自由は、得られないんだぜ。本当さ。ぼく、知ってんだ」(スナフキン「ムーミン谷の仲間たち」)

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