豊橋漂流(1)

高度成長期という時代には夢や希望もあったのだけれど、哀しみもたっぷりとその背景にはあったと思う。今年来年と還暦を迎える人たちは、ちょうど豊かさと貧しさの間、残酷な時代に大切な青春という時間を過ごさなければならなかった。
紡績が盛んだった豊橋市にも、東北や九州から中学を出たばかりの女の子がやってきた。定時制の豊橋高校はそんな地方出身者の受け皿として必要不可欠な場所だったし、彼女/彼らの救いの場所だった。
同じ年代でも都市部と地方ではずいぶんと状況は違っていた。戦後からそう遠くない場所として、都市部とは感覚的に10年は違っていた。それが高校進学率にも現れている。昭和45年東京では94.4%、青森では66.3%、28.1%もの差があったものが、5年後の昭和50年には9%の差までに接近したことを考えてみても、都市部と地方の格差は今では考えられないぐらい大きかったはずだ。
高校進学率は昭和45年(1970年)大阪万博を境に上昇した。それは集団就職の終わり、哀しい時代の終焉でもあった。
その頃、いったい15歳の子供が遠く故郷を離れ、親元や兄弟と離れて暮らすなんてことはどういうことだったのだろうか?それも労働をするということはいったいどういうことだったのだろうか。まだ労働環境も今ほど整っていない職場で、命を削りながら、例えばその給料から親元へ送金するということは、どういうことだったのだろうか?
そうしてやって来た、彼女/彼らの豊橋とはいったいどういうものなのだろうか?
海辺で生まれた少女は、きっと、故郷を想いながら豊川の堤防を歩いたのだろうと思う。そして海が見えるところまで来ると、泣いていたのだろう。
豊橋は海には近い。近いのだけれど海を感じさせない街だ。海の匂いもしない。どうしてなんだろうかと考える。少女たちの故郷の、例えば九州や東北なんて海とはまるで違う。それは豊川の続きだからかももしれない。海に関わる匂いがなかったからかもしれない。工場という匂いはあったとしても。
あるいは、少女たちの涙をたっぷりと吸い尽くした海は、その気配を消してしまったのかもしれないと、思った。
その哀しい海に夕陽が沈む。ボクはふとそんな昔のこと、そう遠くはない昔のことなんかを考えながら、やっぱり海の匂いのしない街を漂っていた。
三ツ相町 船溜まり
三ツ相町 船溜まり 秋
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「我が国の教育水準」(昭和50年度)[第1章 3 (1) b]

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