The moral crisis in China(Japan).

meat tastes is all the better a few days old.

タイトルを考えている時この構文を憶えた記憶がよみがえったのだけれど、ネットで検索しても出てこないのはこれ自体最近は「禁止用語」になってしまったのだろうか、あるいはなにか間違っている?、なんて考えている。とにかく「肉は何日か経ったほうが美味い」のだ。

消費期限なんてものはとても新しいルールで、大量生産大量所費という経済のメカニズムが作りだした生産性を高めるシステムなのだ。要するに生産とは消費+廃棄ということであり、大量消費ということは大量廃棄ということになる。この“狂乱状態の消費者ライフスタイル”でのルールのもとにボクたちは常に新しいモノを欲望し、再生とか再利用なんてものよりは、出来るだけ新しいモノに対しての価値を求めるようになった。

わずか50年前までボクたちは消費期限なんてルールのない枠組みの中で生きてきた。その中での消費者ライフタイルというのは、新鮮な時期を過ぎたモノは加工し処理して保存食にしたり仕立て直したりして廃棄なんてことのほとんどないものだった。

捨てることよりは加工し保存するということは人類有史以来の消費者スタイルだったし、それが自然のなかで生きてゆくための礼節でもあった。モノに対するそういった感覚がボクたち日本人の宗教観や道徳観にも繋がる。言い換えればモノに感謝し捨てないこと、それが日本人なのである。

そのような社会では消費期限を守らないということよりも「食べ物を捨てる」ということのほうが罪が大きかったはずだし、アンモラルな行為であったはずだ。米一粒まで「農家の人のことを考えなさい」と親から厳しく躾けられた、それがボクたちの道徳教育でもあった。

中国、上海福喜食品の問題がクローズアップされている。中には面白おかしく報道する番組もある。でもどうなんだろう、間違っているのはなにもその食品会社だけではなくて、そしてなにもそういう行為を行う中国企業だけではないのではないかと思う。

「食べ物を捨てる」ということを罪だと考え不道徳だと考えるのならば、ああいう行為(消費期限切れの商品を「安全だと」混入することや床に落ちた原料を戻すこと)のほうが本当は正しい行為ではないのだろうか。それに衛生のためだといって使い捨ての手袋を使い、水や石鹸を大量に消費するということのほうが、地球環境にとっては悪いことではないのだろうか。

そもそも生産地と消費地があれほど(中国と日本、中国とアメリカ)距離があることが本当に正しいのかと、ボクは思うのだ。文明がそういうことを可能にしたとはいえ、そういった行為こそがアンモラルな行為なのではないのだろうか。

そうして人件費やコストが安いという理由だけで、生産を他国に依存するということこそ植民地化となんら変わりない卑劣な行為なのではないのかと思う。そういった日本やアメリカのモラルのことには触れずに、ただただ中国人は悪いということこそボクは先進国のモラルハザードだと思うのだ。

それはなにも上海福喜食品の問題だけではなくて、コーヒー豆のことや羽毛のこと、ボクたちの“狂乱状態の消費者ライフスタイル”を支えているのもは、ほんとうにフェアなトレードが行われているのか、中国で生産すると言う本当の理由はなんなのか、そのことに対してボクたちは何の疾しさもないのか、もう一度考える時なのではないかと思うのだ。

2014年夏絵日記「花火大会」

2014年夏絵日記「花火大会

次のような論調もまったく「被害者意識」とは言えないのではないかと思う。

期限切れ鶏肉問題 中国メディア、責任は外資系企業にあると非難(フジテレビ系(FNN)) – Yahoo!ニュース

中国中央テレビは23日、「ことしに入り、海外の企業が次々と品質問題を起こしている。なぜ海外企業は、中国市場に入ると、安全基準を下げるのか」と報じた。
まるで、「言いがかり」のようなことを言っている中国メディア。
責任は、中国ではなく、外資系企業の方にあると非難した。
これは一体どういうことなのか。
拓殖大学海外事情研究所・富坂 聡教授は「中国人は『外資は、中国市場に二流の品を持ち込んで、自分たちをばかにしている』ということですよね、かなり被害者意識を持っているんですね。外国に対するこういうひがみが、こういう問題が起きると、逆噴射するということが、いつも起きるということなんですね。それが今回、非常にわかりやすい形で起きてしまったというふうに言えるんじゃないでしょうか」と述べた。
世界の工場・中国と、外資の溝が浮き彫りとなっている。

2件のコメント

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    前田2丁目さん、どうも。特に待っていたりはしませんでしたが…。
    そのお父さんの「うるささ」がしつけというか、人格形成には良かったんだろうと思います。
    「飯を頂く」と書いていますけれど、そういうところにも厳しさが出てるかな。「食べる」とか「食う」とかではなくて、やっぱりご飯は「いただく」のだと思います。
    好き嫌いがないことが一番かなあ。まあ、あまりなんでもかんでも食べるってのも、モノによっては問題ですが……。

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    はーい、待ってた?前田2丁目ちゃんでーす。今回いきなり英文ですやん。もう、キャッチ~。僕の奥さん、中学と高校で英語を教えれる免許を持ってますけど、正直ヒアリングは苦手みたいで、ボキが先に言うと、ムッとしたりする~。え、自慢話?失礼しました。戻します。今回の笠山さんの社説を読んで真っ先に思い出したのが、1987年の映画「座頭市」。なんかタイトルが英語になってるけどYouTubeで観れます。「いっつぁん」(座頭市の彼をこう呼ぶヒトがすぐに出てくる)が「収容所」で飯を頂くところから始まるんですが、彼は目が見えないので周りの奴らに二つのお椀の中のご飯と味噌汁の中の具を次々に奪われてしまいます。しかも味噌汁の具を盗った奴にはお椀に残った「汁」さえも床に「捨てられ」ます。彼はその音で分かったんでしょうね。床、というか、その足元の地べたの窪みに溜まったその「捨てられた」汁に口を付けて「ずっ、ずずず~」と、迷うことなく吸い込みました。僕はこのシーンは死ぬまで忘れないでしょう。僕は3歳から母親が居なくなりました。父親が「出て行け」と言ったからです。だから「父子家庭」でした。その頃の父親は、まあ、よく分からないけど大変だったんでしょうね。なんか食い物にはうるさかったですね。「残すな」。これをしょっちゅう言われました。イイのかイカンのか分かりませんが僕には好き嫌いはありません。あ、父親は、キライ。

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