消費者というボクたち
「あ、ゴミの日」
もう太陽もたっぷりと登ってしまった午前11時頃、寝起きのまま安アパートの階段をかけ下り、ボサボサの髪をかき上げながら、集積場まで歩いた。戸建ての庭の掃除をしていたその家の奥さんんと目が合う。たぶんボクと同年代で、まだ色気がたっぷりと、その財産と同じぐらいにあるように感じる。ボクのほうは会釈したのだけれど、彼女はボク背を向けて庭を掃いている。
「あ、ごめんごめん、こういう場合は知らん顔するのが礼儀なんだね」
なんて考えながら、コトバもアイサツも交わしたことのないその人の家から数メートル先のゴミ集積場にて無事メデタク目的を果たすことが出来た。
それからまた寝て、今度は「お腹空いたなあ」なんてことで、起き上がる。もう太陽も少し疲れてしまっている午後1時、スーパーに行くのは面倒なので、即席めんのランチ。「洗濯物取り込まなくちゃなあ」なんて、気分も少し疲れてしまっては、食後にジンジャーシロップを飲んでいる。「喉に良いからね」なんてのは独り言。
思うに、消費というボクたち消費者に与えられた義務ってのは、ゴミを出すということと同じなのだ。どういう形にしろ消費しゴミにすることが正しい消費者として国家が推奨する国民の生き方なのだ。
それを修理したり再利用するといった行為は、経済というものを縮小させ税収という国家の糧を減少させる誤った行為なのだろう。だからゴミを国家が管理する。ゴミを捨てるのは無料だ。焼却に埋め立てに莫大な金額がかかるとしてもだ。
ゴミの分量が消費の分量であって、収入の量でもある。もっといえば、ゴミ焼却施設の能力というのが国家の生産力、GDPなんてものと比例する。
ボクたちは消費者なんていう名誉ある呼称から抜出すこはできない。だとすると、また冷凍カツ問題のような事件は起こり、偽装や偽造なんてことは永遠に繰り返される。
のなさん、どうも。
ボクもこのアパートへ入る時には挨拶しなかったです。入る人もいる挨拶なしだし。面倒といえば面倒ですし。
ただ病気の時は心細さから、やっぱり両隣ぐらいは、なんて考えます。
確かに商業的ですよね。ボクたちってのはその商業的な毎日の中で踊らされているような。ほとんど病気かもしれないですね。
こんにちは。最近、近所のアパート暮らしの男性のお宅にお邪魔してます。昨日、階下の住民が引っ越していったみたいで、「挨拶がないんだなあ」と、少し寂しい気分に…。私が古い人間なんでしょうか…。しがらみが、煩わしいと思ってるくせに、勝手ですかね…。コンビ二だってスーパーだって、無言で買い物できる世の中ですもんね…。 最近は、買い物しても、どうせゴミになるんだなあ、と虚しい気持ちになる時もあります。もうすぐ節分で、バレンタインデーで、ひな祭りもありますね。でも、皆、商業的ですよね…。とりとめのない文章になりました。体に気を付けてくださいませね。