大安吉日、六曜カレンダーについて考えたこと

本日1月15日は大安吉日、六白丙申、まことに目出度き日でございます。

なんてきっと、今日の結婚式でスピーチする人も多いのだろうと思う大安吉日の朝、掃除洗濯が終わってやっと机に向かってお茶を一服なんて中年独身は、大安も仏滅も赤口も友引も・・・無関係に世に棲んでいて、その朝の単位とか重量なんてものも、ただただ目が覚めたから、という軽薄短小な時間でしかなく、そしてまたその六曜ってのも、たまたまカレンダーに刷り込まれているぐらいの、単純明快な日しかない。

そう思うのは世に中のことを知らない、例えばコンプライアンスだ、ハラスメントだ、なんてなにかとがなり立てる最近巷間流行りの何とか主義者だけで、人様の幸不幸によって、言い換えれば笑いと涙によって糊口を凌いでいる身としては、その幸不幸が出現する日を、パチンコのぞろ目が出現する瞬間以上に気になっていて、これまた換言すれば、幸不幸の出現によって生かされているというなんとも受動的な生き方をしている身としては、大安も仏滅も赤口も友引も、いわゆる六曜という日によって一粒万倍、とにもかくにも目出度き日、そのお知らせこそが、説法や仏法や啓示なんてものよりも、ありがたいのである。

簡単に言うと、目出度い日には目出度いことがあって、結婚式でのタクシー客需要が増え、こちらにも祝儀(チップだね)が回ってくるってことだ。

大分県佐伯市の作成した「10年カレンダー」その配布中止、そしてそれを撤回した理由というのが、そのカレンダーに記載されていた「六曜」が「科学的根拠のない迷信を信じることが差別につながる場合がある」」というものだった。

「根拠のない風習や文化」によってボクたちは生かされている。「六曜が悪いわけではない。根拠のない風習や文化が差別を助長する恐れもある。行政としてその点は配慮している」というコメント(九重町)は、どうも対外的すぎるように感じる。農業や林業、観光収入の多い地域は、おそらく六曜がないと困る人たちも多いはずだ。佐伯市は一次産業従事者が多い土地柄、六曜なしには生活できない人も多いはずだ。

六曜と人権なんてことよりも、いつも書くように派遣社員や期間従業員を「非正規」なんて「非」呼ばわりして差別することや、ボクたちのことを「運ちゃん」なんて「ちゃん」付けで呼ぶことのほうがどうにかしていると思うのだけれど。

あるいは貧しさのために進学できない子供たちがいたり、ホームレスの人たちがこの寒空に震えていることなんかのほうが、人権としてどうなのよ、と思うのだ。

根拠のある、そうして原因のはっきりしていることで差別されることをどうにかしてもらいたい、そう考るのだ。

そう考えながら、朝風呂に入るのだけれど、もちろん右足からお湯につかり、左手から洗う、ってのがボクの習慣で、そのほうが良いことあるからね。ん?なんか根拠はあるのかって、げん担ぎに根拠も担保もあるかっての。さてと・・・。

大安の漬物
京都、大安の漬物で一杯
今日は良いことありそうな予感、大安に大安だもんね:)
15日の金曜日だし・・・。あれは13日の金曜日か。

地元紙の大分合同新聞などが報じた。仏滅・大安などの六曜が記されているため「科学的根拠のない迷信を信じることが差別につながる場合がある」として中止を決めたが、市は「西嶋泰義市長の政治的判断で配布する」と方針転換した。配布に当たり、ダイアリーには市の見解を示す文書を同封。六曜が人権の問題を含んでいるとする一方、製作に多額の費用もかかっていることを説明して理解を求めるという。

六曜カレンダー「差別につながる」と大分で配布中止 なぜ?
六曜カレンダーの配布中止を撤回 大分県佐伯市「政治的判断で配布する」

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