靖国神社

靖国神社に行ってきた。今度、戦争が起きたとしたら、ボクたちはいったい誰のために戦うのだろうか?

東京を歩くのはあの1994年の春以来だった。その間の20年、いろいろな出来事があったにしろ、時間は薄いスープのように流れて行った。「94年の春以来だった」なんて簡単に思い出せるほどに。

このあたりを歩いたのは1987年の夏以来だった。みんなはボクと同じように、20年とか30年前の思い出が、記憶の中にこうしてキチンとあるのだろうか、なんて少し考えながら、飯田橋の改札を抜けた。暑さだけはボクの記憶にはないほどのもので、早稲田通りへの坂道で日影を探し始めていた。ペットボトルの水は数時間前に豊橋駅前のファミリーマートで買ったものだった。その生ぬるさが余計に暑さを感じさせていた。

今度、戦争が起きたとしたら、ボクたちはこの暑さに耐えられないだろうと思った

戦争とは戦争とは…。そして参議院選挙の公示日だ。 戦争、コロナ禍、物価高、この数年は明るい話題がない。明るい未来を見いだせない。 未来どころか、ボクたちは生まれてからこのかた「地面の…
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戦争とは

平日の靖国神社は、思ったよりも静かだった。この夏の暑さが人の外出を閉じ込めているのだろうと思った。ボクは大鳥居の前でまた少し休憩した。そしてまた水を飲んだ。

ボクたちの知っている戦争は、スクリーンやテレビの画面の上のノッペリしたものだ。空調の効いた部屋で、座り心地の良い椅子の上で、ポップコーンをほおばりながら、戦争が起きている。暑くも寒くもなく、痛みも痒みも、別れも苦しみもない。手触りや耳障りの良い戦争しかボクたちは知らない。

この炎天下に、例えば匍匐前進で100メートル進めるだろうか。そんなことを考えていた。ボクは靖国神社の拝殿、社頭掲示の遺書を読んだ。まるで違う国の若者が書いたもののように思えた。21歳の若者がこれほどの文章を書けることが不思議でたまらなかった。昭和20年からの断絶。終戦はボクたち日本人としての何かをも終わらせてしまった。というか、日本人を終わらせてしまったのではないかと、思った。

今度、戦争が起きたとしたら、ボクたちに残すものなく全滅する

いったい誰に遺書を書くのだろうと、わが身を振り返り考えた。そう考えると、いったいボクは誰なのだろうか、そういうところに突き当たってしまう。そしてこの先、誰であるのだろうか、そう考えた。ボクはいったいどこにいてどこに行くのだろうか、それが分からない人が増えているのが、この国の問題なのだろうと思う。要するに自分のアイデンティティというやつだ。家族や社会の崩壊は、そのまま国家(意識)の崩壊そのものなのだ。

ボクは、246万6千もの戦死者亡のこと考えていた。それは確かだ。ただボクたちには「祖国を守る」という意味なんてものをすっかり忘れてしまっていて、いや、守るべき祖国さえ失くしてしまっていて、いや、利己的に合理的に経済的に生きることが正義となってしまっているのだから、戦争なんてことも利己と金儲けの道具にしか考えられなくなってしまっている。

今度、戦争が起きたとしたら、たぶんこの国はなくなるだろう。そう思う。

帰りに桜みくじをひいた。「吉」だった。「吉」だったのだけれど、たぶん良いことはないだろうと思った。というか、ボクたちは良いことだらけの世の中で生きているのかもしれない、そう思った。冷たいペットボトルの水を買った飲んだら、少し泣けてきた。なんて幸せなんだろうと、そう思ったからだ。

靖国神社をあとにた。帰りは九段下から地下鉄に乗った。manacaが使えた。20年という時間と変化をその時に少し感じた。

靖国神社

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