門屋屋敷跡:武士の義理と哀史を秘めた山裾の聖地

伊那街道が静かに通る山裾の一角に、草に覆われたひそやかな空き地があります。ここが、かつて風格ある門構えを誇り「門屋(もんや)」と呼ばれた門屋屋敷跡です。

長篠の合戦(1575年)の後、南信州阿南町和合の豪士であった宮下官左衛門が武士の身分を捨て、そしてこの清崎の地に移り住んで暮らした屋敷の跡と伝えられています。

激動の甲州征伐と武将・下条氏の逃避行

宮下官左衛門は、信州の有力者である宮下金吾の血筋に連なる人物でした1。天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐が始まると、武田方の武将であった下条信氏とその一族は、案内人の手引きによってこの門屋屋敷へと密かに逃れ隠れました2。

しかし、傷心と過酷な逃避行のさなか、信氏の子である下条信正は同年3月にこの地で病に倒れ、息を引き取ります。その身柄は近くの多宝寺(多寶寺)に手厚く葬られたと伝わります。地誌に記された「三州黒瀬」の潜伏先は、まさにこの清崎の地であったとされています。

戦国の風と義理を貫いた武士たちの気配

その後、主君の下条信氏は遠州宮脇(現在の静岡県掛川市)へと落ち延びますが、同年6月に生涯を閉じました。主家が落ちぶれ、自らは武 士を捨てて静かに農に生きた身でありながらも、最後まで武士としての義理と忠義を捨てずに落人を匿い続けた人々の決意が、この地には刻まれています。

現在の門屋屋敷跡は空き地となっています。ただ、この場所に立つとどこか南信州の七野七原と言われる台地の風景を感じさせます。そして、戦国の世を誇り高く駆け抜け、互いを支え合った武士たちの息づかいが、今も優しく伝わってくるようです。

門屋屋敷跡の画像

参考文献

  1. 『阿南町誌(1987年)』では「官左衛門は七代金吾の伯父」
  2. 『阿南町誌』では「宮下金吾の弟・日吉九兵衛の案内」

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