三河田口駅:ダムの底へ沈む終着駅、田口線が迎えた幕切れの真実

大久賀多(おおくがた)第1・第2トンネルの暗闇を抜け、江ヶ沢(えがさわ)橋梁を渡ると、そこは奥三河の鉄路の終着点「三河田口駅」でした。

寒狭川の清流と深い山々に抱かれたこの最奥の区間は、現在、設楽ダムの建設工事に伴い大久賀多第2トンネル以降の立ち入りが制限されています。かつて御料林の木材と地域の夢を乗せたホームの跡は、やがてダムの底へと静かに沈みゆく運命にあります。

モータリゼーションの波と、突きつけられた廃止通告

昭和30年代に入ると、輸入材の解禁やトラック輸送(モータリゼーション)の発達により、田口線の屋台骨であった木材貨物は激減。沿線の過疎化と自家用車の普及も追い打ちをかけ、赤字は膨らむ一方でした。

昭和39年(1964年)9月12日、衝撃的な「田口線廃止問題」が新聞紙面を飾ります。直後の10月21日、豊橋鉄道の重役会議で正式に廃止方針が決定されます。翌22日には会社側が沿線の鳳来町と設楽町を訪問し、路線の廃止を正式に申し入れました。

あいつぐ台風被害と、追いつめられた存続運動

地元の強い存続要望と激突し、揺れ動くさなかの昭和40年(1965年)9月17日〜18日、台風24号が奥三河を直撃し、田口線は甚大な被害を受けます。

翌昭和41年(1966年)4月、愛知県の斡旋により県道路課、名古屋陸運局、豊橋鉄道、鳳来町、設楽町の「四者会議」が開催され、代替バスの整備などをめぐる難航を極めた協議が開始されました。しかし、自然の猛威は止まりません。同年9月30日には台風26号が、翌10月には集中豪雨が襲いかかり、傷ついた鉄路に追い打ちをかけました。

昭和42年(1967年)、愛知県から調停案「豊橋鉄道株式会社の田口線廃止問題について」が公式発表されます。これを受け、昭和43年(1968年)1月に本長篠〜三河田口間(22.6km)の営業廃止許可申請が提出され、同年7月19日、ついに国から廃止許可が下りたのです。

台風10号の爪痕と、突然訪れた最期

昭和43年8月31日の「最終営業日」に向けてお別れ運行の準備が進められていた、まさにその直前でした。

8月29日、襲来した台風10号の大雨により、田峰〜清崎間で大規模な路盤流失が発生。電車は不通となり、田口線は最終日を待たずして突如としてその運行を絶たれてしまいました。

22.6kmの間に24箇所ものトンネル群、17箇所の橋梁。数々の歴史と人々の情熱を乗せて駆け抜けた「豊橋鉄道 田口線」の39年間は、幾重もの水害と時代の荒波に呑み込まれ、静かにその歴史の幕を閉ろしたのです。

参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクショ.
豊橋鉄道100年史 1924-2024.

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