流旅の人々:田口鉄道を掘り進めた飯場制度と、労働者たち
昭和6年(1931年)7月1日に着工し、翌昭和7年(1932年)11月25日に竣工を迎えた田口鉄道(のちの豊橋鉄道田口線)の第3期線(清崎〜三河田口間、4.5km)。
塩津川橋梁から始まり、そして第3寒狭川橋梁、田内トンネル、入道島第一〜第三トンネル、全線最長の第4寒狭川橋梁、大久賀第一・第二トンネル、江ヶ沢橋梁を経て終点・三河田口駅へと至るこの4.5kmは、寒狭川の断崖絶壁を削り、隧道を穿つ怒涛の難工事区間でした。
重機なき時代の労働を支えた「飯場システム」の光と影
重機が発達していなかった昭和初期、人里離れた奥三河の山奥で隧道掘削や架橋を行うには、膨大な手作業の人員が必要不可欠でした。そこで現場の労務管理と生活拠点として機能したのが「飯場(はんば)システム」です。
工事現場では「発注者 ➔ 名義人 ➔ 親方 ➔ 飯場頭 ➔ 労働者」というピラミッド型の請負体制が敷かれ、それぞれのトンネル(隧道)、橋梁(架橋)、路盤(土工・切土・盛土)といった細分化された工区(丁場)ごとに管理が行われていました。
しかし、このシステムは労働者を縛り付ける仕組みでもありました。「前借金制度」や「伝票制度」によって労働者は実質的な身体拘束状態に置かれ、脱走を防ぐための監視や過酷な使役が横行。現場によっては「タコ部屋(監獄部屋)」と呼ばれる凄惨な労働環境へと変質・苛烈化していく暗部を抱えていました。
葉山嘉樹『流旅の人々』に見る、国境を越えて流れ歩いた人々
田口鉄道の開通直後、目と鼻の先である三信鉄道(現・JR飯田線の一部、中部天竜〜門島間)では、最多で1日約7,000人もの労働者が働いたと言われる大工事が行われました。その現場を舞台に描かれたのが、プロレタリア文学者・葉山嘉樹の作品『流旅の人々』です。
物語は、15歳の朝鮮人少年・小田(日本名)が、生き別れた父親を探すため、一文の金も持たずに韓国・水原から握り飯5つを手に海峡を渡るシーンから始まります。
鉄道の工事場、架橋工事、水力発電所の工事、送電線の工事、それらのどんな工事にも、チゲをかついだ私達の国の人が沢山働いていました。その人達に話しては、私は使って貰い、安いけれどもとにかく賃銀を貰う様になれたのでした。そして其の人達に私は絶えず父を知らないかと聞いたのでした。
北海道から東北、北陸の工事場を流れ歩いた父親と、全国の現場を移動しながら父親を探し続けた小田。そうして歳月を経て三信鉄道の現場でついに再会を果たした時、小田は小さな飯場を率いる飯場頭になっていました。
歴史のレールを敷いた「生身の人間」たちの記録
当時の工事現場には、多くの朝鮮人労働者も集まっていました。葉山嘉樹は彼らを単なる「可哀想な被害者」や「異物」として記号的に描くのではなく、「同じ飯場で身を寄せ合い、すし詰めになり、酒を酌み交わし、不条理な現実にともに抗う生身の人間」として描き出しました。
田口鉄道の難工事区間においても、これら全国を流れ歩いた労働者や異国からの渡航者たちが、過酷な飯場生活の中で泥と汗にまみれながら、そしてツルハシを振るっていたことは間違いありません。
華やかな開通の歴史の足元には、苛烈な飯場制度に耐え、山を穿ち、橋を架けて命を削った名もなき人々が歩んだ「流旅の記憶」が、今も深く刻み込まれています。





参考文献
葉山嘉樹.1979年.「流旅の人々」『葉山嘉樹集』.筑摩書房.
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクショ.
本長篠駅 → 内金トンネル → 大井川橋梁 → 三河大草駅 → 大草トンネル → 富保トンネル → 峰トンネル → 鳳来寺駅 → 玖老勢駅 → 三河大石駅 → 双瀬・宮裏トンネル → 三河海老駅 → 滝上駅 → 稲目トンネル → 田峰駅 → 長原前駅 → 清崎駅 → 第3寒狭川橋梁 → 入道島トンネル → 大久賀多トンネル(終点へ)

