新見南吉『山の中』:野々瀬川の静寂と幻の塩津迂回線
半田市出身の童話作家・新美南吉(1913〜1943)は、昭和13年(1938年)に奥三河の地を訪れています。その体験が投影された自伝的小説『山の中』には、主人公・青木太郎が自虐と孤独に囚われながら、一人奥三河の山深くへと入っていく繊細な旅路が描かれています。
だんだん三河の山の中へはいつて来て、鳳来寺口といふ驛で、四度目に電車を乗り換へた。中の空いた、病室のやうに白く塗られた單線のたゞ一輛の車に乗りこんで、もうこれで乗り換へはないと思ふと青木太郎はややほつとする。
しかし他に乗客が全然ないのではない。青木太郎はいつも電車や汽車や入込みの中にゐると人一倍草臥れる。見知らぬ人々から壓迫をうけるのである。
大抵彼は人間を二種類に分ける。彼の言葉で云へば「プラス」であるか「マイナス」であるかである。換言して更に彼の言葉で云へば「軌道にのつてゐる」か「軌道にのつてゐない」かである。 1
世の中の人間を、目的を持って生きる「軌道に乗っている人間(プラス)」と、自分のように生きる資格のない「軌道に乗っていない人間(マイナス)」に分け、過剰な自意識に苦しむ青木太郎。彼にとって、田口鉄道の単線一両の電車に揺られ、終着の一つ手前である「清崎駅」で下車するプロセスは、どこか己の支離滅裂な日常から切り離され、決められたレール(軌道)の上に身を委ねる逃避の旅でもありました。
漆黒の闇と、野々瀬川に舞う蛍の火
清崎駅で電車を降りた太郎の背しろで、ガタゴトと重い金属音を響かせながら、たった一両の電車が大きく左へとカーブを切り、終着の三河田口駅を目指して闇の奥へと消えていきます。
駅前に広がる山あいの集落には、病人の目を思わせるほど弱々しく暗い電灯がぽつりぽつりと灯るばかり。しかし、昼間の明るい街では己の無職や不完全さを晒されているように感じていた太郎にとって、この圧倒的な闇は心地よい隠れ蓑でした。角の駄菓子屋で「仕事で来た」と咄嗟の見栄(嘘)をついた太郎は、暗い登り道へと足を踏み入れます。
水車の重い音を過ぎると、目の前には薄白くぼんやり浮かぶ一本の細い山道。右手には目視できないほど深い谷が落ち込み、そこを切り裂く野々瀬川の激しい水音が、夜の静寂をかき乱すように響き渡っています。
道中、岡崎から帰省する幼い芸妓・ヨネ子と出会い、連れ立って歩くことになった太郎の内面は、激しく揺れ動きます。
野々瀬川の情景:ふたつの蛍
ふと目を凝らすと、漆黒の木立ちの合間、渓流のほとりや対岸の闇の中に、蛍の光が点滅していました。じっと葉にとどまって光を放つものもあれば、飛翔しながら急せわしく明滅を繰り返す火もあります。深く生い茂る杉やヒノキの暗い枝葉の隙間から、まるで煙草の吸殻の火の粉が落ちるように、ポロリとひとつの蛍火がこぼれ落ちてくる――それは空中をふわっと舞い上がり、ひとつの火がふたつへと離れ、互いを追うように同じ方向へと夜の闇の中へ飛んでいきました。
性的な衝動や優越感、そして「強盗に襲われるかもしれない」という過剰で不条理な妄想に囚われながらも、太郎の足もとは、激しい水音と蛍の交錯する暗闇の中を、どこまでも静かに塩津温泉へと向かって続いていきます。
「蛍が上からこぼれて来たわね」少女もそれを見てゐたのか、云つた。併し彼女は落ちて来た一つの螢火が、二 つに別れたことの意味を、大人のやうに理解してはいないらしい。何の含むところもない無邪気な言葉のひびきだったから。
青木太郎は、その意味を説明してやりたい欲望に動かされゃうとしたが、やはりつつしむ方が、教養のある態度だと思つてよした。 2
もしも「塩津迂回線」が実現していたなら
もしも当時、構想されていた「塩津迂回線」が実現し、鉄路が野々瀬川沿いを貫いてこの集落の風景を一変させていたならばどうだったでしょうか。
文明の音や近代的な灯りがこの深い谷を照らし出していたなら。南吉が描いたあの吸い込まれるような夜の暗闇も、川音に混じる静寂も、そして太郎が抱いた「風のように何でもない現実」のあっけなさや切ない自省の心理も、まったく違ったものになっていたに違いありません。
南吉が昭和13年の奥三河で目撃し、作中に封じ込めた清崎の静寂と暗い電灯の明かりは、幻の鉄道史とともに、今も『山の中』のページの中で密やかに息づいています。








新美南吉の足跡と塩津温泉
清崎駅で降りた青木太郎は、旧伊那街道を清崎大橋へ向かって歩きました。
橋を渡った先には床屋と駄菓子屋の「田賀屋」が並び、道が二、三本に分かれる角になっていました(※この三角地は現在畑になっています)。太郎は田賀屋の角を曲がり、川沿いの街道を辿って塩津温泉へと向かいました。
塩津温泉は、昭和2年(1927年)創業の一軒宿「秀山荘」から始まったと言われます。(古くから鉱泉が湧いていたと言われていたと伝えられます。)1965年の雑誌『温泉33号』によると、その後宿が増え「温泉」を名乗るようになり、やがて4軒(秀山荘・芳泉荘・名倉屋別館・てんじん荘)へ拡大。現在も入口の看板にその名が残ります。3
現在営業しているのは秀山荘と芳泉荘の2軒のみで、昔はその間に名倉屋別館が建っていました。また、少し離れた塩津天満宮の傍には、てんじん荘の建物が今も当時の姿をとどめています。
参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
観光の岩古谷 – 国立国会図書館デジタルコレクション
新美南吉.1980.『新美南吉全集 第7巻』.大日本図書.
清崎駅:奥三河から全国へ駆け抜けた名機「デキ50形」の流転劇
- 新美南吉.1980.『新美南吉全集 第7巻』,p264.
- 新美南吉.1980.『新美南吉全集 第7巻』,p274.
- 温泉 33(4) – 国立国会図書館デジタルコレクション
