朝鮮人労働者と田口鉄道:難工事を支え、飯田線へ繋がる足跡

全線約22.6kmに及ぶ田口鉄道(のちの豊橋鉄道田口線)は、昭和3年(1928年)5月に着工し鳳来寺口(現・本長篠)〜三河海老間の第1期線(11.6km)が昭和4年5月22日に開通します。次に三河海老〜清崎間の第2期線(6.5km)は昭和5年(1930年)12月10日、そして昭和7年(1932年)11月25日に竣工、12月22日に全線開業します。

1.5kmを超える長大な「稲目(いなめ)トンネル」をはじめ、全線の実に20%近くを24箇所ものトンネルと、17箇所の橋梁。まさに奥三河の険峻な地形と真っ向から対峙した、当時の土木技術の結晶と言える構造でした。

日韓併合後の渡日ラッシュと、山岳工事の飯場

この極めて過酷な突貫工事を現場の最前線で支えたのが、日韓併合後に海峡を渡り、奥三河の山間部に身を置いた多くの朝鮮人労働者たちでした。

1910年の日韓併合以降、1920年代(大正中期〜末期)にかけて渡日制限の緩和や定期船の就航が進み、多くの人々が日本本土へと渡ってきました。1927年(昭和2年)に着工した田口鉄道も例外ではなく、断崖を削りトンネルを穿つ危険な山岳工事のために、請負業者の「飯場(はんば)」制度を通じて多くの労働力が投入されました。

「三信鉄道(現・JR飯田線)」難工事への前哨戦

この田口鉄道の建設現場で培われた動員体制や、危険工区での施工経験は、直後の1929年(昭和4年)から始まり、のちに歴史的な激動の難工事として知られる「三信鉄道(現在のJR飯田線南部区間)」の建設へ直接的に受け継がれていくことになります。田口鉄道は、まさにその後の「飯田線建設」に向けた壮大な前哨戦としての構造を孕んでいたのです。

『鳳来町誌 田口鉄道史』に記された「多くの外国人」という表現の背景には、こうした土木請負機構の下、飯場に身を置きながら奥三河の鉄路を底辺で支えた労働者たちの歴史的事実が刻み込まれています。

海老側からは神田組が、田峰側からは奥田組がそれぞれ担当し、工事にあたっては大勢の外国人も使用した。鳳来町誌 田口鉄道史編「稲目隧道の開削」

現在、稲目トンネルは県道として拡幅・改築され、当時の面影は薄れつつありますが、過酷な時代を乗り越えて奥三河の山地を切り拓いた人々の記憶は、今も鉄路の跡地に静かに刻み込まれています。

参考文献
広瀬貞三.2001年.「三信鉄道工事と朝鮮人労働者一『葉山嘉樹日記』を中心に」.新潟国際情報大学情報文化学部紀要
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクショ

本長篠駅 → 内金トンネル → 大井川橋梁 → 三河大草駅 → 大草トンネル → 富保トンネル → 峰トンネル → 鳳来寺駅 → 玖老勢駅 → 三河大石駅 → 双瀬・宮裏トンネル → 三河海老駅 → 滝上駅 → 稲目トンネル → 田峰駅 → 長原前駅 → 清崎駅 → 第3寒狭川橋梁 → 入道島トンネル → 大久賀多トンネル三河田口駅

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です