田峰駅:森林鉄道と材木市場の波乱に翻弄された鉄路の記憶
1.5kmを超える長大な「稲目(いなめ)トンネル」の暗闇を抜けると、田口鉄道(のちの豊橋鉄道田口線)の電車は「方瀬(ほうぜ)川橋梁(4.57m)」と「第一寒狭川(かんさがわ)橋梁(64.96m)」という2つの橋を立て続けに渡り、静かに「田峰駅(だみねえき)」へと滑り込んでいました。
田峰駅は、田口鉄道の計画当初に出された「宮内省への請願書」にも記されている通り、皇室の財産である「段戸世伝御料林(だんどせいでんごりょうりん)」から木材を運び出すための重要拠点であり、奥地の山林へと伸びる「森林鉄道」との一大接続駅でした。
川流しから鉄路へ。帝室林野局による「森林鉄道」の開通
山手線内側の8倍以上、約53.9平方キロメートルもの広大な面積を誇る段戸御料林。鉄道ができる以前は、伐採した木材を寒狭川や豊川の水流に乗せる「管流し」や「筏(いかだ)」組みによって川下へ流し、豊川貯木場まで運ぶという膨大な時間と危険を伴う方法に頼っていました。
昭和5年(1930年)12月、田口鉄道の第2期線(三河海老〜清崎間、6.5km)が開通すると、これに合わせるように御料林の木材を直接田峰駅へ集めるための「森林鉄道」が誕生します。昭和6年には「田峰鰻沢線(18.8km)」、昭和7年には「田峰栃洞線(7.220km)」が次々と田峰駅へ接続しました。
なお、田口鉄道が民間会社(私鉄)によって運営されていたのに対し、この森林鉄道は御料林を管理する国営機関「帝室林野局(名古屋支庁新城出張所)」の管轄でした。そのため、建設工事や事業主体は田口鉄道とは別に進められていましたが、両者のレールが田峰駅で結ばれたことで、奥三河の木材物流は一変することになります。
木材暴落と「足助への逆走」による初期の苦戦
しかし、巨大な森林鉄道網と接続し、大量の木材輸送が期待された田峰駅ですが、開業初期は悲劇的なスタートを切ることになります。
折しも時代は「昭和恐慌」の真っ只中。一般経済の冷え込みによって木材価格が暴落し、山からの出荷量自体が激減してしまいました。さらに、御料林の木材を買い取った民間業者が、輸送コストや長年の商流(慣行)を優先し、完成したばかりの田口鉄道を使わずに「山を越えて足助方面へ逆走し、競合する三河鉄道(現・名鉄三河線)に乗せて名古屋へ運ぶ」という裏目が出ます。田口鉄道側の集荷・営業戦略の失敗も重なり、期待された官民材の輸送量は低迷を極めました。
戦時下と「戦後復興バブル」のピーク、そして終焉へ
この苦境が一変するのは1940年(昭和15年)頃のことです。太平洋戦争へ向かう戦時色が濃くなると、軍需用材や燃料用の木炭として木材の需要が急増。そして終戦直後の1947年(昭和22年)、空襲で焼野原となった都市部を再建するための「戦後復興バブル(空前の木材飢餓)」により、田峰駅からの木材輸送量は歴史上のピークを迎えました。かつて「足助へ逆走」していた木材も、一刻も早く都市へ送るため田口鉄道へ集中したのです。
しかし、その黄金期も長くは続きませんでした。昭和30年代に入ると、道路網の整備にともない小回りの利く「トラック輸送」が急速に発達。そして木材輸送の主役を奪われた田口鉄道の貨物量は再び減少へと転じます。最後は相次ぐ集中豪雨などの自然災害によるダメージも重なり、時代の波に抗えなくなった鉄路は、昭和43年(1968年)に静かにその歴史の幕を閉じることとなりました。




参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクショ
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