稲目トンネル:公の精神に殉じた立役者・関谷守男の去りゆく背中

昭和5年(1930年)12月10日、田口鉄道の第2期線(三河海老〜清崎間、6.5km)が華々しく開通し、奥三河の鉄路はさらに北の深山へと伸びていきました。

この延伸工事において最大・最長の難所となったのが、奥三河の山肌を力づくで撃ち抜いた全長1,508mの巨大な洞門「稲目(いなめ)トンネル」の掘削でした。『鳳来町誌 田口鉄道史編』によれば、測量は宮内省が自ら担当し、当時の最高技術であったドイツ製の最新式測量機械を投入して施工されたと記録されています。

工費の3割を飲み込んだ「自然との戦い」

田口鉄道は全線22.6kmという路線の実に20%近く(24箇所・総延長4,107m)をトンネルが占める、全国的にも極めて珍しい「トンネルの鉄道」でした。

当初の総工費300万円のうち、25%にあたる76万円がトンネル建設費(隧道費)として見込まれていましたが、稲目トンネルをはじめとする凄絶な難工事によって、第三期工事の頃には実行工費は361万円へと膨張。そのうち約30%にあたる110万円がトンネル建設費へと注ぎ込まれました。まさに稲目トンネルは、奥三河の険しい自然に挑んだ先人たちの「悲願と執念」の象徴そのものでした。

光の影で静かに起きていた「計算外の悲劇」

稲目トンネルが開通し、奥三河に歓喜の汽笛が響き渡ったまさに同じ昭和5年12月。その栄光の裏舞台では、この鉄道の誕生にすべてを捧げてきた一人の男が、追われるように表舞台から姿を消していました。

大正13年の「宮内省への請願書」を執筆し、筆頭取締役として建設の先頭に立ってきた田口町長・関谷守男(せきや もりお)氏の取締役辞任劇です。

関谷酒造の経営者でもあった関谷氏は、決して個人の利益や配当のためではなく、「奥三河に鉄路を引き、地域を富ませる」という純粋な公(おおやけ)の精神から、個人として丸山喜兵衛氏に次ぐ大規模な580株(当時の額面で約2万9,000円、現在の価値で億単位)もの株式を自ら引き受けていました。

また、併行するバス会社「東三自動車運輸」の社長を兼任したのも、利益相反の批判を承知のうえで「鉄道とバスの不毛な客の奪い合いを避け、相互に協力して奥三河全体の交通インフラを守る」という、地域リーダーとしての深い苦心からでした。

昭和恐慌の嵐と、失われた現金

しかし、彼の「公の精神」による壮大な構想を打ち砕いたのが、昭和4年から世界を激震させた「昭和恐慌」と、翌年の「金解禁」という計算外の悲劇でした。

農村部の深刻な窮迫(農村恐慌)によって本業の清酒の売上は暴落。世の中から現金が消え去り、手元の資金繰りは極度に悪化しました。関谷氏は引き受けた株金の追加払込に応じることが物理的にできなくなり、ついに彼の持株は競売処分という悲劇的な結末を迎えます。

さらに、不況の直撃を受けた東三自動車運輸も、田口鉄道から借り入れていた「競合回避のための資金1万5000円」を返済することが不可能となりました。鉄道とバスの共存共栄を願って打った手が、巡り巡って関谷氏自身の経営責任として重くのしかかり、第2期線が開通したまさにその月、彼は自ら立ち上げた会社を去る決断を下したのです。

鉄道からバス専用道、そして現代の県道へ

時代は流れ、昭和43年(1968年)に豊橋鉄道田口線(旧田口鉄道)が廃止されると、代替バスの運行が始まりました。当初は稲目トンネルの東側にそびえる険しい与良木峠越えのルートでしたが、昭和44年1月15日、旧稲目トンネルの路面を舗装して「バス専用道路」へと転用する工事が完成。これにより峠越えはなくなり、所要時間が6分短縮されました。

その後、昭和54年(1979年)3月23日には2車線化工事が完成し、一般車両も通行できる道路へと生まれ変わりました。これが現在の県道389号線「稲目トンネル」です。

宮内省の最高技術が集結した難工事、膨らんだ建設費、そして奥三河の未来に私財と名誉のすべてを投げ打ち、時代の荒波に飲み込まれていった関谷守男氏の切ない足跡――。かつて電車が駆け抜けた闇の奥には、奥三河の交通を切り拓いた人々の「光と影」のドラマが今も重厚に刻み込まれています。

参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション
交通機関と文化生活 – 国立国会図書館デジタルコレクション

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