三河海老駅:皇室の出資と宿場町の活気が生んだ第1期線の終着駅

大正13年(1924年)6月1日、地元田口町の関谷守男町長ら有志4名が、奥三河の発展を願い鉄道建設への出資を乞う請願書1を宮内省へ提出しました。そして、これが実を結んで出資の内諾を得ると、2年後の大正15年(1926年)11月15日付で、関谷守男を発起人代表とする田口鉄道株式会社の敷設免許状が下付されます。

その後、経路選定においては当初有力だった「大海案」から「鳳来寺口案(鳳来寺口駅から大草、門谷を経て玖老勢へ向かうルート)」への変更など紆余曲折を経ましたが、昭和3年(1928年)5月、ついに第1期区間(鳳来寺口〜三河海老)11.6kmの建設工事が始まりました。そして翌年の昭和4年(1929年)5月22日、最先端の電化路線として華々しく開通を迎えたのです。

全線の半分を形作った、最初の5つの駅

開業当時に設置されたのは、起点である鳳来寺口駅(現・本長篠駅)をはじめ、鳳来寺駅、玖老勢(くろぜ)駅、三河大石駅、そして終着の「三河海老駅」の5駅でした。

その翌年である昭和5年(1930年)4月には、途中に三河大草駅が新設されます。この区間の完成によって、後に三河田口駅まで伸びる田口鉄道全線22.6kmのおおよそ半分の距離が鉄路で結ばれたことになります。

中馬街道の宿場町として栄えた海老の活気

この第1期線の終点として三河海老が選ばれた背景には、この町が古くから「伊那(いな)街道」の重要な宿場町として発展してきた歴史がありました。伊那街道は、東海道の御油(ごゆ)から新城・海老を通り、与良木(よらき)峠を越えて田口、上津具、そして信州へと伸びる一大交易路でした。

この道は別名を「中馬(ちゅうま)街道」とも呼び、主に信州の農民たちが農閑期などを利用し、馬の背に荷物を載せて物資をリレー輸送した民間独自の物流ネットワーク(中馬)に由来しています。江戸幕府が定めた公的な街道とは異なり、関所や規制が比較的緩やかだったため、信州の「山の恵み」と三河の「海の塩や海産物」を安く効率的に運ぶ「庶民の流通大動脈」として大いに栄えました。

また軍事的にも重要な道で、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは兵站道として使われました。さらに、武田信玄が野田の戦いの帰途、この街道で亡くなったと言われています。

馬の鈴の音から、電車の響きへ

山深い奥三河にあって、多くの旅人や商人が行き交い、物資が集散する拠点だった海老の町。宿場町として培われた確かな経済基盤と活気があったからこそ、田口鉄道の最初の拠点駅としてふさわしい大役を担うことになりました。

かつて街道沿いに響いていた馬の鈴の音は、昭和の幕開けとともに電車の軽快な駆動音へと受け継がれ、地域にさらなる繁栄の時代をもたらすことになります。

*海老構造改善センター内に三河海老駅に関する資料やジオラマ模型が展示されています。

参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション

本長篠駅 → 内金トンネル → 大井川橋梁 → 三河大草駅 → 大草トンネル → 富保トンネル → 峰トンネル → 鳳来寺駅 → 玖老勢駅 → 三河大石駅 → 双瀬・宮裏トンネル → 三河海老駅

  1. 皇室の森を動かした、田口鉄道「宮内省への請願書」を読み解く

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