鳳来寺駅:参拝客と女学生で賑わったドル箱区間
起点の鳳来寺口駅(現・本長篠駅)を出発した田口鉄道の電車は、わずか7〜8分ほどで「鳳来寺駅」へと滑り込んでいました。漂泊の俳人・種田山頭火は、その旅日記に「さらに電車で鳳来山へ。―― 駅からお山まで一キロ、そこからお寺(本堂)まで一キロ。」と当時の足取りを綴り、道中を「トンネルいくつおりたところが木の芽の雨」と詠んでいます。(昭和14年/1939年4月22日、豊橋から豊川を経て鳳来寺に訪れています。1
現在の鳳来寺山門第一駐車場あたりに建っていたとされる駅舎は、門前にふさわしい立派な寺社建築様式で、2階には食堂も併設されていたといいます。
「大逆転」で決まったルートと鳳来寺からの資金
実は計画当初、地形が平坦でトンネルも少なく、工費が最も安く抑えられる「大海駅から寒狭川(かんさがわ)沿いに玖老勢(くろぜ)へ向かう案」が極めて有力視されていました。
しかし最終的には、名刹・鳳来寺の門前を通すことで観光需要を見込み、さらに「鳳来寺鉄道」や「鳳来寺」からの強力な資金援助を引き出すために、現在のルート(鳳来寺口から大草、門谷を経て玖老勢へ向かう案)へと大逆転で決定したのです。
参拝客と通学利用者が支えた、路線きっての「ドル箱区間」
この大胆なルート変更の目論見は見事に当たりました。そして秋の紅葉シーズンともなれば、ホームはあふれんばかりの参拝客で埋め尽くされたと伝えられています。
さらに昭和10年(1935年)には、鳳来寺女子高等学園(のちの県立鳳来寺高等学校)が設立され、生徒の大部分がこの田口線を利用して通学するようになります。鳳来寺参拝客と女学生という二大需要に支えられたこの区間は、まさに田口鉄道を支える「ドル箱区間」となり、先人たちのルート変更はまさに慧眼だったといえます。
空襲を逃れ、鳳来寺駅へ移転した本社
終戦間近の昭和20年(1945年)7月、鳳来寺駅はさらに重要な役割を担うことになります。6月20日の豊橋空襲によって、豊橋市花田石塚町にあった田口鉄道の本社が被災。そのため、本社機能がこの鳳来寺駅へと移転されたのです。『鳳来町誌』には「鉄道の地元に立地した」とその意義が記されています。
時代は流れ、鉄道も学校もこの地から姿を消してしまいました。しかし、鳳来寺が奥三河の観光の中心地であることは今も変わりません。かつて駅舎に満ちていた人々の賑わいや行き交った記憶たちが、今も山の紅葉をさらに深く、鮮やかに染め抜いているかのようです。




参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
本長篠駅 → 内金トンネル → 大井川橋梁 → 三河大草駅 → 大草トンネル → 富保トンネル → 峰トンネル → 鳳来寺駅