富保トンネル:光と闇が紡いだ戦時下の記憶。田口鉄道の急膨張
三河大草駅から大草トンネルを潜り抜けると、列車は数十メートルの築堤(ちくてい)を走り、息をつく間もなく次の「富保(とみやす)トンネル」へと滑り込みます。明かり区間と暗闇が交互に訪れるこの車窓の変化は、田口鉄道が歩んだ激動の歴史そのものを象徴しているかのようです。
戦時色の高まりとともに急増した乗客と貨物
開業以来、田口鉄道の輸送実績は『鳳来町誌』が指摘する通り、「戦時色が強まるにつれて急速に増えて」いきました。実際のデータを振り返ると、その伸び率は凄まじいものがあります。
昭和15年(1940年)に約48万人だった乗客数は、太平洋戦争の開戦を経て毎年10万人規模で膨れ上がり、終戦の年である昭和20年(1945年)には約139万人へと急増しました。
| 年度 | 乗降客数(人) | 貨物量(トン) | 主な歴史的背景 |
| 1929年(昭和4年) | 105,074 | 4,039 | 第一期線開業 |
| 1935年(昭和10年) | 230,956 | 29,605 | 路線定着期 |
| 1940年(昭和15年) | 487,030 | 51,841 | 戦時体制の強化 |
| 1942年(昭和17年) | 684,935 | 71,550 | 貨物量がピークに |
| 1945年(昭和20年) | 1,397,248 | 50,374 | 終戦、乗客数が急増 |
| 1946年(昭和21年) | 1,455,537 | 63,061 | 戦後の混乱と復員 |

悲願の「初黒字」をもたらした動員と疎開
この極端な数字の跳ね上がりは、戦時中の労働動員や、都市部から山間部への激しい疎開による人の移動が要因とされています。また、物資不足を補うための木材や木炭などの貨物輸送も過密を極めました。
皮肉なことに、開業から「一貫して赤字」を垂れ流し経営難に喘いでいた田口鉄道は、この未曽有の国難があった昭和20年度になって初めて経営収支の黒字を記録することになります。戦後の大混乱期にあたる3年間も、乗降客数は140万人から160万人規模を維持し続け、鉄路はまさに過労死寸前で地域を支え続けました。
トンネルの合間に焼きついた故郷の光
この田口線に乗って戦地へと赴き、そして命からがら復員してこのレールへ戻ってきた人々がいました。富保トンネルをはじめとする数々のトンネルを抜けるたび、車窓からフラッシュのように一瞬だけ差し込む奥三河の美しい緑と故郷の景色。それは当時の乗客たちの目に、そして胸の奥深くに、生涯消えない記憶として焼きついたに違いありません。




参考文献
鳳来町誌 田口鉄道史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
鳳来町誌 歴史編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
清水 武.2021.『豊橋鉄道田口線 ―田口鉄道の残影―』.カルチュア・エンタテインメント株式会社.
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