貞治の石仏:「高遠のミケランジェロ」守屋貞治の延命地蔵尊

名倉ののどかな田園風景のなかに、静かに佇む一体の石仏があります。その優美な姿は、江戸時代後期に「名工」と謳われ、のちに「高遠のミケランジェロ」とも称されるようになった高遠石工、守屋貞治(もりや さだじ)の手によるものです。

守屋貞治は、明和2年(1765年)に高遠藩藤沢塩供村(現在の長野県伊那市高遠町長藤塩供)に生まれました。若くして石工の門を叩き、20歳という若さで独立を果たします。22歳のときには、美濃の禅躰寺にて西国三十三所観音を刻んだと伝えられており、早くからその非凡な才能を開花させていました。

30歳を迎えた寛政6年には、名僧として知られる願王和尚に師事します。単に技術を磨くだけでなく、自らも仏道に深く帰依することで、貞治の彫る石仏は他にはない深い慈悲の表情を湛えるようになっていきました。50代を迎える頃にはその名声は全国へ轟き、伊勢兵庫、遠く長門にまで足を伸ばして生涯に多くの名作を遺しました。

幻の石仏が繋ぐ、東納庫の名家「沢田家」との絆

設楽町東納庫に遺る延命地蔵菩薩像は、文政3年(1820年)、貞治が56歳という円熟期に差し掛かった頃のものです。台座には「大平村 沢田左内謹建立」の文字が深く刻まれており、この地と貞治の結びつきを今に伝えています。

施主である沢田佐内は、かつての大平村若林(現在の東納庫若林)で酒造業を営んでいた豪商であり、庄屋を務めた人物でした。三代目にあたる左内(通称・久吉)の家系は、地域の発展に多大な貢献を残しています。彼の子である左四郎は、地域の水利を支える川口原の堤を築いた功労者であり、さらに沢田家の屋敷内には大平学校が建てられました。この学校こそが、のちの名倉小学校名倉中学校の礎となったのです。

こうした地域の熱い歴史と想いを受け止め、貞治は名倉の地のために、魂を込めて地蔵尊を刻み上げたのでした。

『石仏菩薩細工』の記録から蘇った、奇跡の再発見

この貴重な地蔵尊は、長い間「幻の存在」とされていました。昭和44年に発行された書籍『貞治の石仏・幻の石工を求めて』のなかで、著者の曽根原氏により、貞治自身が遺した記録『石仏菩薩細工』の一節が紹介されます。そこには「延命地蔵菩薩 三河国名倉村 願主何某」と明確に記されていたのです。

しかし、当時はまだその現物がどこにあるのか分かっておらず、同書には「一体造立しているが、未発見である」と結ばれています。この記述をきっかけに、多くの研究者や歴史愛好家がこの地を訪れるようになり、ついに東納庫の地で本尊が確認されたのです。

日輪を背に負い、右手に錫杖、左手には薬壺をそっと抱えたそのお姿は、穏やかで清らかです。四季折々の風が吹き抜ける里山の風景のなかで、貞治の延命地蔵像は、今日も変わることなく人々を優しく見守り続けています。

参考文献
貞治の石仏 : 幻の石工を求めて – 国立国会図書館デジタルコレクション.
野ざらしの芸術 : 守屋貞治の石仏 井上清司写真集 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
文化したら55号.
「左四郎堤」三州名倉 史的変遷篇 – 国立国会図書館デジタルコレクション

貞治の石仏の地図

大蔵寺・設楽の寺院 – 北設楽郡の旅

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です