三河湾の白き恵み、塩田の興亡:蒲郡の製塩の歴史と時代の波
海岸線を埋め尽くした白き畑:吉田藩も認めた大塚の銘塩
かつて、蒲郡とその周辺の海岸線には、見渡す限りの「塩田」が広がっていました。梅薮、下佐脇、御馬、西方、泙野、大草、赤根、大塚、不相、竹谷、太田新田、拾石、鹿島、形原、西浦。三河湾の穏やかな波打ち際は、まさに命の源である塩を生み出す一大拠点だったのです。
大正12年(1923年)の記録では、宝飯郡の6か町村におよそ44町4反歩(約44ヘクタール)もの塩田が存在し、その大半にあたる34町1反が塩津村に集中していました。
中でも大塚の塩は、江戸時代に旧吉田藩主・松平伊豆守の厚い庇護を受けたことで大いに栄え、その品質の高さから他の地域の塩よりも高値で買い上げられていたといいます。明治8年(1875年)の図面を見れば、丸山から星越にいたる海岸線のすべてに塩田がひしめき、大塚村では全戸数の約60%にあたる191戸が塩業に携わるという、まさに「塩の街」でした。大塚は地理的制約から、人手と手間のかかる「揚浜式(あげはましき)」を頑なに守り、実直に極上の塩を醸し出していたのです。
専売制の荒波と養魚への転向:激変する塩の村々
しかし、明治38年(1905年)に塩の専売制度が実施されると、効率化の波が押し寄せます。生産性の低い「揚浜式」を中心に不良塩田の整理が断行され、宝飯郡の塩田は次第に姿を消していきました。
それは大規模な塩田を誇った塩津村も例外ではありませんでした。整理統合によって転業や廃業が相次ぎ、明治37年に68町あった塩田は、わずか1年で47町へと激減。その後も衰退は止まらず、昭和初期には全盛期の半分以下にまで落ち込みました。
生き残りをかけた先人たちが選んだのが、塩田の跡地を利用した「養魚業」への転向でした。昭和8年(1933年)の記録では、製塩を続ける者が133軒に対し、水産養殖業へと舵を切った者が68軒にのぼり、塩田の風景は少しずつ魚たちが跳ねる池へとその姿を変えていったのです。
競艇場へと姿を変えた塩田:天章師が惜しんだ最後の風景
太平洋戦争が勃発すると、深刻な物資不足から一時的に製塩は活況を取り戻しますが、それも長くは続きませんでした。昭和28年(1953年)の台風13号によって塩田施設が壊滅的な打撃を受けると、三河の製塩業は決定的な終焉へと向かいます。
昭和35年(1960年)に発行された伊藤天章師の『蒲郡風土記』には、当時の移り変わる風景が寂しさをにじませて記録されています。
「梅薮の塩田は競艇場(現在の蒲郡競艇場)になってしまったので、とうの昔になくなった。西の拾石沿いに少しばかり残っているが、これは埋立の話がはじまっているので、遠からずなくなる」
天章師が予見した通り、かつて三河の浜辺を白く染め上げ、領主や人々の暮らしを潤した塩田は、街の近代化や埋め立てとともに完全に姿を消しました。そして今、穏やかにきらめく蒲郡の海を眺めるとき、かつてこの浜辺で潮を汲み、汗を流した人々の営みと、街を支えた白き黄金の歴史が静かに胸に去来します。







吉良饗庭塩の里では、入浜式塩田が復元されています。また、塩づくり体験ができます。大塚には「浦島太郎」の伝説が残り、玉手箱には塩の製法が入っていました。(亀ヶ礁と、名産「太郎塩」にまつわる竜宮伝説)
日露戦争と塩の専売制
日露戦争の戦費調達のために始まった塩の専売制ですが、しかし真の狙いは「国内製塩業の近代化(大規模化・低コスト化)」でした。そのため、国は瀬戸内などの一級塩田へ生産を集中させ、蒲郡のような「人力頼み」「小規模」「天候に左右されやすい」地方の塩田を【不良塩田(=生産性の低い不適地)】として強制的に買い上げ、廃止・転業を促したといわれます。
蒲郡の塩田の衰退は、まさに日露戦争という国家の存亡をかけた激動の歴史と地続きの出来事でした。
参考文献
「蒲郡地域の塩田の消長」蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
