星越峠が刻む歴史の結び目と海の記憶:挿絵が伝えるもの
伊藤天章師の著書『蒲郡風土記』の「西の郡 吉田の要衝星越」の章をめくると、「星越峠より」と題された一枚の挿絵が目に飛び込んできます。そこには、星越から大塚方面を望んだ、大きく曲がりくねる坂道とのどかな海岸線が情緒豊かに描写されています。
本文中で「新星越街道」として紹介されているのは、明治の末に開通したかつての峠道のこと。「三谷の乃木山入口からだらだらと坂を上り、温泉入口を右手に見て、鉄道修練所(現在の三河繊維技術センター付近。本文中は誤植とみられる)の南の突端を回り込んで大塚へと通じる」かつての主要道でした。
宗牧が惜別の歌を詠んだ峠と、今も遺る「星越峠の碑」
この星越の地は、古くから交通の要衝として人々の行き交う場所でした。明治21年(1888年)4月に国鉄の浜松・名古屋間が開通した際には、すでに星越峠を貫く鉄道トンネルが完成していたことからも、その険しさと重要性がうかがえます。
星越バイパスが昭和46年(1971年)9月に開通します。現在のバイパスを通ると、切り拓かれた深い谷のような景色が目を引きます。そのバイパスによって南北に分断されてしまいました。しかし、北側の旧街道沿いには、昭和54年(1979年)に建てられた「星越峠の碑」が今もひっそりと佇んでいます。その石碑には、連歌師・谷宗牧がこの地を去る際に詠んだ
たちかへり又も逢はましほしこえや かすかすあかぬ老のさか哉
という情緒あふれる惜別の歌が刻まれています。かつての旅人がこの坂で足を止め、三河湾の景色を名残惜しんだ姿が目に浮かぶようです。
領境を越えていった歴史の主役たち――幾重にも重なる時間を愛しんで
天章師は「星越峠をさかいとして、こちらが松平領、あちら(東)が吉田領」と記しています。そして、ここが単なる道路ではなく、明確な領地の境界であったことを指摘しています。さらに、この峠の歴史的価値について「忠臣蔵の吉良上野介、幡豆の小笠原、西浦・形原の巨勢、深溝の八田など、当然ここを通ったであろう。」と、この道を駆け抜けていったであろう歴史上の主役たちへ想いを馳せ、幾重にも重なる三河の時間に深い愛着を寄せています。
天章師がこの文章を綴った昭和30年代前半から歳月が流れました。そして、この静かな旧道を歩いて三谷町や大塚町へと行き交う人の姿はほとんど見られなくなりました。しかし、十能常夜灯へと続く平坂街道の面影を残すこの峠道には、今も歴史の息吹と、旅人たちを見守ってきた海の記憶が静かに満ちています。






善応寺 – 谷宗牧「半ば」に込められた意味
吉良街道の追分:時を越えて交差する道
星越峠の地図
参考文献
伊藤天章.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.昭和51年.
宝飯郡地理歴史 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
