家康伝説と萩原伝説、大塚の地に交錯する二つの英雄譚

蒲郡の東端に位置する大塚の地は、西郡と御津の境界にあり、古くから独自の文化と地形的特性を併せ持つ交通の要衝でした。かつて大塚村広畑の地には、室町から戦国期にかけて建立された長興寺、松涛軒(しょうとうけん)、光明寺という3つの寺院が並び立ち、人々の信仰を集めていました。

昭和35年発行の『蒲郡風土記』の「家康伝説と萩原伝説」の章を紐解くと、そこには開発によって失われた往時の寺社風景とともに、この地域特有の「中間性」を示す興味深い2つの伝承が活き活きと綴られています。

山容の消滅とともに消えた古刹、そして家康の命を救った「かくれなぎ」

『蒲郡風土記』では、かつての街並みを「元の村役場の隣に、お寺が二軒並んでいる。向って右の参道の深々とした寺が長興寺である」と活写しています。昭和50年(1975年)に現在地へと移転する前、長興寺は確かに光明寺の北東奥にありました。そのさらに北側、松涛軒山の南山麓に佇んでいたのが松涛軒です。天文2年(1533年)、常陸の武士がこの地に落ち延びて長興寺の弟子となり、薬師如来を祀ったのが始まりと伝わります。

しかし、昭和40年代の宅地造成により、松涛軒山はその姿を消し、福祉施設へと生まれ変わりました。この折に松涛軒は、同じ曹洞宗の長興寺へと合併されたと考えられています。

旧長興寺の門前には、かつて蒲郡市の天然記念物に指定されていた「なぎの大木」がそびえ立っていました。若き日の徳川家康が、敵の追っ手から逃れるためにこの大木の陰に身を隠し、辛くも九死に一生を得たという伝説から、いつしか「かくれなぎ」と呼ばれるようになります。なぎの葉は繊維が非常に強く、手で引きちぎろうとしてもなかなか切れないことから、別名「弁慶泣かせ」とも称され、家康の強い運命を象徴するかのように、昭和の境内を静かに見守っていました。

御堂山合戦の悲劇、丹野城主・萩原芳信の意地と血脈

「家康伝説」が勝者の歴史を伝える一方で、大塚にはもう一つの敗者の歴史「萩原伝説」が眠っています。長興寺の開基であり、丹野城の城主であった萩原左衛門尉芳信は、文明2年(1470年)に起きた「御堂山合戦」に敗れ、近くの備後林にて無念の自刃を遂げました。その娘もまた、悲劇のうちに「姫塚」にて命を落とします。

しかし、一族の血脈は絶えませんでした。芳信の2人の息子は一命を取り留め、のちに子孫たちが父を祀る「萩原神社」や「萩寺」を創建。さらには御津の名家である今泉家を継ぐこととなり、その血脈は地域に深く根を下ろしていったのです。

西郡と御津の狭間で、天章師が伝説に託した地域論

蒲郡の主流な歴史観のなかでは、時に「天下人たる家康は決して敗走などしない」として家康伝説が美化される一方、御堂山合戦で敗れた萩原芳信は「社寺を破壊した悪者」として語られるような偏ったニュアンスが存在していました。

しかし、大塚という地は、地政学的にも文化風土の面でも、西郡の勢力圏と御津の勢力圏のちょうど中間に位置しています。著者の伊藤天章師が、あえてこの「家康伝説」と「萩原伝説」という対極にある2つの物語を並べて一章を割いた背景には、勝者と敗者のいずれの歴史をも包み込んできた大塚の地が持つ、独自の「中間性」や「多様性」を伝えたかったからに他なりません。かつての山やお堂が姿を消した今も、大塚の風の中には、二人の武将が駆け抜けた熱き時代の記憶が確かに息づいています。

備後林と備後塚 – 丹野城主 萩原芳信ゆかりの地

参考文献
伊藤天章.昭和51年.『蒲郡風土記』.蒲郡新聞社.
「吉田藩領大塚村」蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館デジタルコレクション
蒲郡史談 – 国立国会図書館デジタルコレクション.
53740-松波軒山第1号墳 文化財総覧WebGIS.

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