形原温泉「あじさいの里」、誕生に賭けた人々の情熱
三河湾を見下ろす山肌を、初夏の訪れとともに埋め尽くす色鮮やかなあじさい。今や蒲郡を代表する風物詩となった形原温泉(かたはらおんせん)の「あじさいの祭り」。始まりは、昭和62年(1987年)8月、愛知県立安城農林高等学校の生徒たちの協力を得て、約5万本・100種が植栽したことから始まりました。
しかし、この美しい風景の裏には、昭和の終わりに押し寄せた激動のバブル経済と、温泉街の存亡を賭けた人々の知られざるドラマが隠されています。
オイルショックの試練とリゾート法の影、地元客に愛された形原温泉
蒲郡の観光客数は、昭和47年から48年にかけて最盛期を迎えました。しかし、昭和48年のオイルショックを境に急激な落ち込みを見せます。形原温泉でも昭和43年に20軒あった宿泊施設が、昭和50年には10軒へと半減。生き残りをかけた旅館は、一軒あたりの収容人数を増やす「大型化」へと舵を切りました。
こうした努力が実を結び、昭和55年には客足が回復。昭和57年には、市内3大温泉(三谷・西浦・形原)の中でトップの利用者数を誇るまでに成長しました。その最大の特徴は、利用者の実に68%が愛知県内からの観光客という「地元密着型」の強さにありました。
しかし、昭和62年に「リゾート法」が制定されると、潮流は一変します。蒲郡でも海陽町エリアの埋め立てと、のちの「ラグーナ蒲郡」へ繋がる大規模開発計画が始動。華やかなリゾートの光の影で、資本力に劣る形原や西浦といった小さな温泉街は、生き残りをかけた激しい試練に直面することになります。
テニスコートの失敗から、芸妓と料理人が見出した「あじさい」の光明
危機感を募らせた温泉街は、次の観光資源を模索し始めます。前年には老舗旅館の木村館が主体となりテニスコートを整備したものの、思うような成功を収めることはできませんでした。
その直後、立ち上がったのが、当時の形原温泉発展会の会長(形原芸妓組合の会長でもあった、通称・よしとみさん)と、地元の老舗「割烹いと」の社長でした。植物に大変造詣が深かった「いと」の社長の発案により、山肌に「あじさい」を植えるという起死回生の一手が決まります。
ここで、「なぜ蒲郡から離れた安城の高校が?」という歴史の秘話が生まれます。当時、近くの五井(ごい)農場で実習を行っていたのが、安城農林高等学校の生徒たちでした。彼らの若い力と熱意、さらには形原芸妓組合の芸妓さんたちもがスコップを手に取り、植栽に加わったのです。「せっかくの白い肌が日焼けしてしまう。」と笑い合いながら、急斜面に一株一株、未来への希望を植え付けていきました。
水やりの日々と微笑ましい逸話、そして今に伝える先見の明
形原温泉あじさいの里の植栽が始まってからの3年間、発展会会長と「いと」の社長は、自ら泥にまみれて水やりや手入れを続けました。そして開園当初の3年間は入園料を無料としました。その見事な景観が話題を呼ぶと、やがて蒲郡市もトイレや水銀灯の整備に動き出します。そして年を重ねるごと名実ともに地域の観光名所へと育っていきました。
集客の黎明期には、「あじさいの花を持って帰ると恋が叶う」という初々しいキャッチコピーを展開したといわれます。しかしのちに「本当に花を持って帰られては困る。」と慌てて中止したという、今では微笑ましいエピソードも残されています。
バブル経済が崩壊し、昭和から平成、令和へと時代が移り変わる中で、かつて不夜城のように賑わった形原温泉の旅館街は、建物の取り壊しや廃業が相次ぎ、寂しさを隠せません。
しかし、華やかなりし頃に当時の人々が生き残りをかけて植えたあじさいの花々は、今も変わらず毎年美しい大輪を咲かせ、訪れる人の心を癒やしています。温泉の湧出に沸いた戦後の栄華と、バブル終焉とともに進んだ温泉街の衰退。
その光と影のコントラストの真ん中で、芸妓組合の会長や老舗割烹の社長が未来へ託した先見の明は、青や紫の瑞々しいグラデーションとなって、今も確かに形原の山肌を彩り続けています。
形原温泉あじさいの里の画像








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参考文献
蒲郡市三十年史 – 国立国会図書館デジタルコレクション.